ひらがなの姓

三枝木恭平は二十七歳の営業職だ。名字を正しく読まれたことがほとんどない。取引先の紹介で泊まった深音村の宿でも、主人は「みえきさん?」と首をかしげた。

宿帳には、漢字の姓だけが縦に並ぶ。名を書く欄はない。村史によれば、旅人の姓は家へ帰るための標で、名は本人について歩くものと考えられていた。

表紙裏の注意は太い墨だった。

《名字を、ひらがなで記帳してはいけない》

恭平は翌朝早く出る予定で、読み方を説明するのが面倒だった。欄へ一度だけ「みえき」と書いた。主人はその文字を見て、初めて彼を見失ったような顔をした。

「漢字は、どちらへ置いてきました」

その夜、会社のグループチャットで同僚が彼を呼んだ。

同僚A:この資料、みえきさん担当?

同僚B:そんな人いたっけ

恭平:俺だよ

同僚A:表示名、名字だけひらがなになってるぞ

プロフィールを直しても、再起動すると戻った。名刺管理アプリでは「三枝木」の三文字だけ読み取り不能になり、過去のメールからも漢字が抜けていった。

実家へ電話すると、母は声を聞いて安心したあと、「下の名前は覚えてるけど、うちと同じ名字だったかしら」と言った。

会社の入館証には名だけが残り、受付で毎朝「所属不明」と止められた。先祖代々の墓を撮った写真では、三枝木家の文字が石から削れ、空いた面に柔らかな平仮名が滲んでいる。恭平が漢字を紙へ書こうとすると、一画目でペン先が折れた。婚姻届の見本を開けば、配偶者の姓を選ぶ欄に《帰属する家なし》という第三の選択肢が増えていた。

健康保険証の家族名も平仮名へ崩れ、父と母は別々の世帯として表示された。恭平の続柄だけ《旅人》になっている。

帰宅後、行政手続きアプリから通知が届いた。

《氏名表記の変更が完了しました》

姓:みえき

名:恭平

戸籍上のつながり:該当なし

慌てて本人確認を開くと、顔写真は恭平のままなのに、家族欄が空白だった。

画面下の案内文だけが、宿の主人の口調で表示された。

《帰る家を新しく登録してください》