カットをかけない監督

午後三時二十六分、古渡真紅は撮影用のカチンコを閉じた。裏面の時間電池には〈残り一テイク〉

炎上する車へ乗り込むスタントマン、貴船源一が親指を立てる。

「もう一回だけ」

車は跳躍台を越えたあと横転し、源一は三時二十九分に死亡する。カメラへ組み込まれた試験用巻き戻し機能が、そのたび三分前へ現場を戻した。

真紅はブレーキを交換した。監督が「迫力が足りない」と火薬を増やした。火薬を抜けば助監督が予備を戻した。源一へ死ぬと伝えると、彼は笑った。

「俺が降りたら、若いのが乗るだけだ」

成功条件は三時二十九分までに源一が運転席を離れていること。最後の一テイクを失敗すれば、映像だけが残り、人は戻らない。

源一がまた言う。

「もう一回だけ」

真紅はカチンコを鳴らさなかった。代わりにメイキング用カメラを配信回線へつなぎ、監督が安全報告を改ざんし、出演契約を盾に源一へ強行を迫った映像を生放送した。

監督が回線を切れと怒鳴る。真紅はカメラ台車へ飛び乗り、撮影所の主電源盤へ突っ込んだ。照明も火薬制御も落ち、車はスタートできない。源一は運転席から降りた。

三時二十九分。時計は進んだ。

製作費数億円の撮影は中止。真紅は器物損壊で逮捕され、業界団体の名簿から外された。配信映像は監督を失脚させたが、完成するはずだった映画も消えた。

連行される直前、源一が何か言おうとした。真紅は聞かなかった。礼を受け取れば、正しいことだけをした気になりそうだった。

配信は数分で遮断されたが、視聴者が複製した映像は消えなかった。源一以外のスタント担当者も安全記録を提出し、撮影所には捜索が入った。一方で真紅が壊した電源盤から火が出て、保存中の別作品まで失われた。無関係のスタッフから届いた非難も正しかった。真紅は取調室でそのメールを一通ずつ読み、英雄扱いする記事だけを閉じた。彼が選んだのは拍手ではなく、撮れなくすることだった。

地面には、割れたカチンコが開いたまま転がっていた。テイク番号の欄だけが、最後まで空白だった。