グラスは二つのままで
紗季の誕生日に届いた箱には、細い脚のグラスが二つ入っていた。
通販サイトの抽選に当たったらしい。カードには〈大切な人と乾杯を〉と印刷されている。
二十九歳最後の誕生日を一人で過ごしていた紗季には、その文句が余計だった。グラスを並べると、片方が現在、もう片方が未定の未来に見える。いつまで空のままなの、と透明な器に尋ねられているようだった。
箱の底には返品票があった。
〈ペアセットのまま受け取る〉
〈一人用タンブラーへ交換する〉
交換品の写真には、乳白色の丈夫なタンブラーが一つだけ写っていた。割れにくく、余らず、今の自分に必要な数を正確に示しているようだった。
一人用なら気楽だ。倒れにくく、食洗機にも入る。今の暮らしにはそちらが合っている。ペアのグラスを持ち続ければ、誰かを待っているみたいで惨めだと思った。
紗季は交換欄に印をつけ、封筒へ入れた。
その直後、友人から電話が来た。誕生日を忘れていたことへの謝罪ではなく、「近くまで来たから五分だけ寄っていい?」という用件だった。
十五分後、友人はコンビニの小さなスパークリングジュースを持って現れた。紗季は返品用の箱からグラスを出し、二つとも洗った。
「これ、恋人用?」
「たぶんメーカーはそう思ってる」
二人で笑って乾杯し、友人は本当に五分で帰っていった。玄関が閉まると、部屋はまた一人分になる。けれど、二つ目のグラスは未来の恋人専用ではなかった。今夜のような訪問にも、花を一輪挿す日にも、一つ目を割ったときにも使える。
紗季は返品票を封筒から出した。
〈ペアセットのまま受け取る〉に印をつけ直す。
誰かが現れると信じる証拠としてではない。一人だから持ち物まで一つに減らす必要はない、と決めたのだ。空いている器を空席と呼ばない暮らしもできる。
洗った二つのグラスを棚へ並べた。片方はしばらく使わないかもしれない。その余分さを、期待とも敗北とも決めずに保つ。
紗季は返品票を破った。二つある未来のどちらかを選んだのではなく、用途をまだ決めない自由と、そのまま場所を取る二脚分を引き受けた。