サビ前からの一時間
音楽スタジオのB室は、十九時から二つのバンドに予約されていた。
一つは、私がボーカルを務める「水槽レター」。もう一つは、三年前に解散した「木曜彗星」。受付の伊吹さんは青ざめ、今のギタリスト真柴は「古い登録が残ったんじゃない?」と言った。
木曜彗星は、私と元相方の鷹野環が組んでいた二人組だ。最後のライブ直前、環は何も言わず来なくなった。今夜、私はその頃の曲を別の編成で初めて歌う予定だった。
予約を入れられたのは、伊吹さん、真柴、昔からこのスタジオを使う環の三人。手掛かりは、B室に置かれた左利き用のギター、譜面台の高さが私の肩に合わせてあること、そして予約時間が十九時ではなく「サビ前から一時間」と備考に書かれていたことだった。
「木曜彗星の予約、環が入れたんですね」
廊下の自販機の陰から、懐かしいチェック柄のケースが出てきた。
環は三年前、ライブ当日に父親が倒れ、故郷へ戻った。説明する余裕がないまま、私から届いた「もう来なくていい」という怒りのメッセージを、そのまま別れの言葉にしてしまったという。
今夜の告知で、私が昔の曲を歌うと知った。直接謝る勇気はなかったが、あの曲はサビ前の四小節を二人で合わせなければ始められない。だから旧バンド名で同じ部屋を予約し、左利きの自分のギターだけ置いて帰るつもりだった。
真柴は事情を知らなかった。ただ、見慣れないギターが私の演奏を邪魔しないよう、譜面台をいつもの高さに直してくれた。伊吹さんは二重予約に気づいたが、空いていたA室を水槽レター用に確保し、B室を残した。
「勝手に曲を持っていったのは、私のほうだった」
私は環に言った。
「でも、三年遅れで戻るなら、最初から合わせて」
真柴がA室から顔を出し、「本番まで二十分」と指を立てた。
環はケースを開き、左手で最初のコードを鳴らした。少し錆びた音が、B室の壁を震わせる。
私はマイクを握った。
「サビ前からじゃなくて、イントロから」