バジルの引っ越し
伊都の最後の誕生日に、会社の人たちは鉢植えのバジルをくれた。
花は病室に持ち込めないことがあるし、食べられるものなら困らないだろう、という榛名の選択だった。けれど小さな黒いポットには、茎が七本も詰め込まれていた。葉は元気でも、土の表面から白い根が見えている。
「これ、苦しいね」
伊都が言うと、榛名は「縁起でもない言い方」と顔をしかめた。
午後、伊都は鉢を自宅へ持ち帰った。病院へ戻るのは夕方だ。誕生日の外出でやりたいことを一つだけ、と看護師に言われていた。ケーキを食べるでも、海を見るでもなく、バジルを植え替えると答えたら、看護師は予定表に「園芸」と書いた。
台所の床に新聞紙を広げる。ひと回り大きな素焼き鉢、鉢底石、培養土。どれも榛名が帰り道の園芸店で買ってくれた。
黒いポットを揉むと、根鉢は崩れずに抜けた。白い根が底をぐるぐる回り、土より多いくらいだった。
「切る?」
榛名がスマートフォンで調べながら聞く。
「少しだけほぐす」
伊都は指先で外側の根をほどいた。乾いた土の匂いが立つ。爪の中へ黒い粒が入り、病院の消毒液の匂いが薄くなった。
葉を一枚こすると、青く辛い香りが指に移った。伊都は以前、残業帰りにこの香りのパスタを作ったことがある。榛名は塩を入れすぎ、二人で水を飲みながら食べた。思い出話にはせず、伊都は香りのついた指を新聞紙の端で拭いた。
鉢底石を敷き、土を入れる。高さを確かめるため一度置くと、茎が傾いた。七本を分ければ長く育つのかもしれないが、今日は一鉢のままにした。根をほどきすぎるより、この固まりごと新しい場所へ移すほうが、いまの伊都にはできる。土を足し、もう一度。今度は葉が鉢の縁より少し上に出た。
「これ、誰が持って帰る?」
榛名が小さく聞いた。
伊都は答える代わりに、鉢を榛名のほうへ半分回した。正面などない植物なのに、いちばん大きな葉が彼女を向いた。
隙間へ土を入れ、割り箸で突く。空洞が埋まるたび、土の高さが下がった。最後に両手で鉢の側面を軽く叩く。
伊都は計量カップで水を注いだ。乾いた土が濃い色へ変わり、鉢底の穴から最初の一滴が新聞紙に落ちた。