パンを焼く石の炉
王都一の厨房で働いていたエルナは、余ったパンを貧民街へ配った罪で追放された。
辺境でもらった土地には温泉があったが、家も畑もない。あるのは源泉の横に残された、崩れた石の炉だけだった。
「なら、最初に食べられる場所を作ろう」
エルナは一日目の仕事を、炉一つに絞った。
倒れた石を拾い、煤のついた面を内側へ戻す。
宮廷厨房の巨大な窯も、火の回りを工夫したのはエルナだった。しかし完成した日に料理長の名が刻まれ、彼女は薪運びへ戻された。この炉には銘板はいらない。焼けたパンを食べた者が、温かかったと覚えてくれれば十分だ。石を叩き、音の澄んだものだけを壁へ選ぶ。隙間には温泉泥と乾いた粘土を練って詰めた。熱い蒸気が通る穴だけは塞がず、石の下を巡って炉内を温めるよう道を作る。
料理長は、彼女を「勘だけの女」と呼んだ。けれど火加減も湯加減も、手をかざせば分かる。石がじゅうぶん温まったところで、エルナは掌についた粉を払い、炉口へ頬を近づけた。熱は強すぎず、息をするように一定だった。これなら生地の中まで急かさず育てられる。そこで、旅袋の小麦粉を水と塩でこね、丸い生地を二つ入れた。
しばらくして、炉の割れ目から甘い匂いが漏れた。
扉代わりの鉄板を外す。
ふくらんだ平パンの表面は薄くきつね色で、割ると中から真っ白な湯気が上がった。温泉の鉱気は石壁で遮られ、生地には小麦と酵母の香りだけが残っている。
エルナは岩塩と乾燥香草を振り、熱いままかじった。皮はぱりり、中は驚くほど柔らかい。
ちょうどそこへ、王都厨房の使者が馬から転げるように降りた。
「祝宴のパンが全部しぼみました! 料理長が、あなたの配合帳を出せと」
差し出された帰還命令書を、エルナは炉の脇へ置く。
「配合帳なんてないわ。パンは、膨らむまで待つの」
もう一つの平パンを二つに割り、空腹で腹を鳴らした使者へ半分渡した。
王都では命令されて焼いた。ここでは、誰に食べさせるかを自分で決められる。
源泉の湯気が夕日に染まる中、エルナは二個目の生地を炉へ入れた。返事を書くより、次のパンを焼くほうが大事だった。