マグカップは明日
蓮見珠季は、仕事がうまくいかなかった夜ほど机をきれいにした。
広告制作会社で、半年かけた企画が見送られた。先方の方針変更で、誰かの失敗ではない。それでも珠季は、会議室から戻ると資料を細かく破棄し、共有フォルダを整え、使わなくなった参考書を棚へ戻した。
役に立たなかった時間の痕跡を消せば、次の仕事へ移れる気がした。
午後十時、オフィスには珠季と清掃員しかいなかった。机の上には、朝のコーヒーが底で固まったマグカップ、赤字だらけのコピー、芯の折れた鉛筆がある。片づければ十五分。洗面台でカップを洗い、紙を分別し、明日の付箋を貼れば、少なくとも整った人として帰れる。
珠季はマグカップを持ち上げた。底の茶色い輪が、今日一日の印のように残っている。
流しへ向かう途中、清掃員のワゴンを避けた。小さく会釈され、珠季も頭を下げる。その動作だけで、首の後ろが引きつった。
自分が疲れていることを、珠季は机の乱れより嫌っていた。疲れた顔で帰れば、負けたように見える。誰も見ていなくても、最後まで整えてからでなければ一日を終えられない。
珠季は流しの手前で止まり、マグカップを机へ戻した。
コピーも積んだままにした。折れた鉛筆だけ、転がって落ちないよう紙の上へ置く。
パソコンの電源を切ると、黒い画面に自分の輪郭が映った。髪は崩れ、口紅はほとんど残っていない。直さずに社員証を外した。
エレベーターを待つ間、机のカップが気になった。朝、乾いた汚れを落とす方が面倒だ。置きっぱなしをだらしないと思う人もいるかもしれない。
扉が開いた。
珠季は戻らなかった。
地上へ出ると、夜の空気はぬるかった。駅前の店は閉まり始めている。珠季は夕食を選ぶ気力がなく、売店で小さなパンを一つ買った。袋を開けながら、机へ戻ってカップだけでも洗おうかと考えたが、改札を通った。
翌朝、マグカップの輪は昨日より濃くなっていた。スポンジで二度こすると落ちた。企画がなくなった事実は残り、次の案件も始まっている。
珠季は洗ったカップへ湯を注いだ。
昨日の自分が残した仕事を、今日の自分は責めずに引き受けた。