ミルクピッチャーの月
夜勤明けの看護師、依子は、病院から二本離れた通りの喫茶店へ寄る。朝の光を浴びて帰ると、眠るべき時刻を身体が忘れるからだ。
店内は薄暗い。天井の扇風機がゆっくり回り、ジャズの低音が床を這う。依子は奥の席に座り、カフェオレと卵サンドを頼んだ。
窓の外では、通勤する人々が速足で駅へ向かう。自分だけが一日の流れを逆向きに泳いでいるようだった。
昨夜、担当した老女が何度も月を見たいと言った。窓のない処置室で、依子は「終わったら見えますよ」と答え続けた。けれど処置が終わった頃には空が白み、月はもう見つからなかった。
カフェオレが運ばれる。白い陶器のミルクピッチャーを傾けると、残った一滴が丸く底に留まっていた。照明を映して、欠けた月のように見えた。
「どうしました」
店主の八代が訊いた。
「月があったので」
依子がピッチャーを示すと、八代は覗き込み、「小さいですね」と真顔で言った。
卵サンドは温かかった。焼きたての卵に辛子マヨネーズが薄く塗られ、パンの耳まで柔らかい。噛むたび、塩気と湯気が疲れた頬の内側へ広がった。
依子は食べ終えると、紙ナプキンに丸い月を描いた。下へ「今夜は見えますように」と書く。
次の夜勤、その紙を制服のポケットへ入れていった。老女のベッドを窓側へ少し寄せ、消灯後にカーテンを開けた。
雲の切れ間に、細い月があった。
翌朝、依子はまた同じ店へ寄った。八代は何も訊かず、ミルクをいつもより多めに添えた。白いピッチャーは手のひらに温かく、その底には今朝も、小さな月が揺れていた。
依子は紙ナプキンの端に、今度は朝の月を描いた。満月ではなく、少し欠けた丸にした。欠けていても見つけられるし、小さくても誰かに渡せる。カフェオレを飲み終えると、身体の夜がようやく明け、瞼に心地よい重さが戻ってきた。
店を出ると、朝の風は冷たく、制服のポケットだけが紙の月で温かかった。