レシートの裏の婚約
唐沢佳澄は左手の指輪を外し、レシートと一緒にカウンターへ置いた。
「これ、返品した方がいいと思いますか」
カフェ〈余白〉の冬木浬は、客のレシートを小さな鳥へ折るバリスタだ。白いシャツの袖を肘までまくり、紙を折るたびに言う。
「レシートは、過去形です」
佳澄は婚約を解消した、と会社の同僚へ話すつもりだった。週末には、お祝いの食事会まで予定されている。早く断らなければならない。
浬は宝飾店のレシートを裏返した。購入者は唐沢佳澄。支払いも佳澄のカード。サイズ直しの依頼欄も空白だった。
「婚約した相手は、どこに?」
佳澄は黙った。
指輪は、自分で買ったものだった。二十九歳の誕生日、昼休みに一人で店へ入り、右手につけるつもりで選んだ。翌朝、急いで左手にはめたまま出社すると、同僚が「もしかして」と声を上げた。
訂正すればよかった。けれど皆が祝福し、最近別れたことを知られずに済む安堵から、曖昧に笑った。相手はどんな人か、式はいつかと聞かれるたび、嘘は形を得た。
「婚約解消にすれば、相手のことは聞かれなくなると思って」
「嘘の中に、架空の悪者まで作るんですね」
「言い方がきついです」
「珈琲は薄められますが、事実は薄めるほど量が増えます」
浬は指輪を返し、レシートの裏へ短い文章を書いた。
『指輪を見て誤解されたのに、訂正できませんでした。婚約はしていません。お祝いの会は中止にしてください。』
「これをそのまま送れと?」
「装飾したければ、自分を責める言葉ではなく、相手の時間を返す言葉を足してください」
佳澄は最後に『準備してくれたのにごめんなさい』と加え、同僚のグループチャットへ送った。すぐに既読が並ぶ。怖くて伏せた画面へ、最初の返信が届いた。
『びっくりした。でも言ってくれてよかった。食事会は普通の誕生会にしよう』
佳澄の目から涙が落ちた。浬は何も言わず、紙ナプキンではなく柔らかな布のおしぼりを差し出した。
「指輪は返品します」
「気に入っていない?」
「気に入ってます。でも見るたび思い出しそうで」
浬はレシートを鳥へ折り、指輪の中央へそっと置いた。
「レシートは過去形です。指輪まで過去にする必要はありません」
佳澄は迷った末、右手に指輪を戻した。鳥はその指の上で、飛び立つ前のように羽を広げる。
会計後、浬は返品期限の印字を黒く塗りつぶした。
「返品できなくしたんですか」
「いいえ。今日から、自分で選んだものに変えました」
レシートの裏には、佳澄が送った正直な文章だけが残っていた。