レモンを沈める順番
鳥越伽耶は、塩レモン鍋の輪切りを、端から一枚ずつ汁へ沈めた。
大学時代の友人三人が、久しぶりに伽耶の部屋へ集まっている。来月から地方支社へ転勤する伽耶の送別会だと、皆は思っている。
本当は転勤ではない。母の介護のため、退職して実家へ戻る。
母はまだ五十代だが、事故の後遺症で一人では暮らせない。兄は海外、父はいない。会社には家族の事情と伝えた。友人には、重たい話を持ち込めず「海の近くで働く」と笑った。
実家では、朝の着替えと通院、食事の準備が待っている。自分にできるか不安なのに、できないとは誰にも言えない。友人の予定を介護の話で曇らせるくらいなら、きれいな送別会だけ受け取ろうと思っていた。
蓋を開けると、レモンの鋭い香りを含んだ湯気が上がった。白菜の芯は噛むと小さく音を立てた。伽耶は柔らかい葉から食べ、白い芯だけを皿の隅へ寄せた。
友人が、新しい町の観光地をスマートフォンで見せた。伽耶は画面を見ず、鍋のレモンを沈め続けた。苦みが出るから早めに取るべきなのに、全部を底へ押し込んだ。
「苦くなるよ」
言われて、伽耶は箸を止めた。
苦くなっても、自分が食べればいいと思っていた。母のことも、仕事を失うことも、友人に会えなくなることも、全部一人で飲み込めばいい。
友人は鍋からレモンを三枚すくい、それぞれ別の小皿へ置いた。一枚だけ、伽耶の皿の白菜の芯のそばに残した。苦さまで均等に分けるような、乱暴で優しい取り分け方だった。
伽耶は鞄から退職証明書を出した。紙の上には、転勤先ではなく退職日が印字されている。
誰も「かわいそう」と言わなかった。一人は定期券アプリを開き、実家の最寄りまでの経路を調べた。もう一人は、残った鍋を四つの容器へ分け始めた。
伽耶は寄せていた白菜の芯を一つ噛んだ。音がして、ようやく自分がここにいると分かった。
最後のレモンは沈めなかった。取り皿の縁へ立てかけた。
苦みを出す順番まで、自分一人で決めなくていい。友人たちが持ち帰った小皿には、伽耶が言えなかった悩みが一枚ずつ分けられていた。