一センチの葱
八木沢瑛莉は、午前二時に父の家の勝手口を叩いた。
父は寝巻きの上へ古い前掛けをつけ、葱と卵のスープを作った。葱は幅一センチほどに切られている。湯気に混じった青い香りが立ち、厚い輪は噛むたびにわずかな歯触りを残した。
瑛莉の夫は、葱を一ミリの小口切りにする。厚さがそろわなければ、包丁を取り上げて最初からやり直した。洗濯物の畳み方も、帰宅後に送る報告の順番も同じだった。
半年前、父は結婚に反対した。瑛莉は大げさだと怒り、連絡を絶った。父から届く短いメッセージも、意地で未読のまま消した。
だから今夜、助けてほしいとは言えなかった。自分で選んだ相手なのに戻ってきた、と軽蔑されるのが怖かった。頬の痣は化粧で隠したが、片方だけ靴下を履き違えたことまでは直せなかった。
父はスープを一杯だけ置き、背を向けて流しを磨き始めた。瑛莉の鞄が旅行用ではなく、財布と充電器しか入らない小ささでも、何も尋ねなかった。
夫の眠っている間に出たため、着替えも持っていない。朝になれば戻るつもりだと自分へ言い聞かせ、玄関の靴も普段のパンプスを選んだ。逃げたのではなく散歩だと思いたかった。
瑛莉は厚い葱を一つずつ食べた。切り幅が違う。斜めになったものも、芯が飛び出したものもある。それでも父は拾い出さない。器の中で、どれもそのまま煮えていた。
最後に、いちばん太い輪が残った。
瑛莉は箸で持ち上げたが、口へ運べなかった。夫なら、残す理由を説明するまで立たせないだろう。
父は振り返らない。
瑛莉は葱を器へ戻し、スプーンを置いた。
「ごちそうさま」
父はようやく来て、残った輪を見た。叱る代わりに、器を持ち上げ、その一片だけを小鍋へ戻した。明日の分へ混ぜるように、蓋を閉める。
それから食卓の引き出しを開け、勝手口の合鍵を一つ、空いた器の跡へ置いた。
「切り方を直してから来い、とは言わん」
瑛莉は謝罪も事情も口にできなかった。ただ鍵を掌へ移した。金属の冷たさはすぐに体温になじんだ。
翌朝の鍋には、太い葱が一つ残る。父が食べるのか、瑛莉が食べ直すのかは決まっていない。
決まっていなくても、この家では蓋を閉めておけるのだと、瑛莉は初めて知った。