一円を誤差にしない
決算室の巨大画面に、差額「一円」が赤く浮かんでいた。
「誤差ですよ。切り捨てて締めましょう」
経理責任者の猿渡が笑い、前回と同じ黒い電卓を久世理人の前へ置いた。
決済代行会社を創業した理人は、一度目の人生でその一円を無視した。翌月、顧客預り金から十二億円が消失。猿渡は端数処理の仕組みを使い、一円未満の架空取引を何億回も集約して海外口座へ抜いていた。金融当局から業務停止を受け、会社は即日破綻。理人は自分の署名が入った虚偽報告書を、拘置所で何度も思い出した。
そして目を開けると、締め処理の一分前だった。
秒針が進むたび、画面の隅で「自動確定まで」の数字が減る。残り五十八秒。前回は速く閉じることを有能さだと思った。だが決済会社の仕事は、数字を早く消すことではない。預かった一円を、預かったまま返すことだ。
猿渡が黒い電卓を指で叩く。
「一円です。会社全体から見れば塵でしょう」
理人は首を振った。
「顧客のお金に、塵はない」
理人は自動確定を解除した。警告窓が三枚重なったが、構わず締めボタンではなく、取引追跡ボタンを押す。一円の差額を逆向きにたどると、同じ時刻、同じ端末、同じ海外送金先へつながる数百万件の小数処理が現れた。
猿渡の笑顔が消える。
「テストデータです」
「なら、本番口座から九億七千万も予約されている理由を説明して」
理人は事前に呼び戻しておいた監査法人へ画面を共有し、全外部送金を凍結した。猿渡がカードキーを抜いて逃げようとするが、扉は監査モードで施錠されている。
「たった一円で、私を疑ったのか」
「その一円を見捨てたせいで、前は全部失った」
締め時刻を二十分過ぎても、帳簿は閉じなかった。だが預り金残高は一円も減っていない。
前の人生なら、午前零時に金融当局の自動警告が届いた。今夜、理人の端末へ届いたのは銀行からの一行だった。
『不正送金予約を遮断。全額保全を確認』
社員の給与振込一覧に、次々と緑の完了印がつく。
最後の一円が合った瞬間、巨大画面から赤い数字が消えた。