一拍遅い横断歩道
二十三歳の立石綾子は、周りより遅れることを恐れていた。朝は隣の人が立つ前に電車を降り、昼休みは同僚が食べ終える速さに合わせる。仕事の返信も、内容を考える前に受領だけ送った。誰かを待たせると、自分の価値が一段下がる気がした。新入社員研修で一度だけ回答が遅れ、講師に『ゆっくりでいい』と言われた。その言葉を慰めではなく警告として覚えている。以来、考えがまとまる前でも、周りの口が開けば同じ速さで答えた。
そのため、帰宅時の横断歩道が点滅すると必ず走った。次の青まで一分半。待つほどの時間ではない。急いで帰っても、特別な予定があるわけではない。それでも立ち止まれば、見えない順位を一つ落とすようだった。部屋に着くと、走った分だけ早く仕事の連絡を開き、余った時間をまた誰かへ返した。ヒールで駆け込み、渡り終えて息を整えるのが毎日の癖だった。
高架下で、鳥居蓮司がペンキ缶とバケツを並べて演奏していた。速いリズムに学生たちが手を叩く。綾子も信号待ちのあいだだけ聞くつもりで立った。次の予定はない。それでも腕時計を見て、聞く時間を赤信号の長さに決めた。
鳥居が一本のスティックを差し出した。
「遅れた音は、失敗だと思いますか」
「合奏なら、そうじゃないですか」
「三回だけ、一拍遅く叩いてみて」
綾子は断ろうとしたが、周囲の視線は演奏へ向いたままだった。鳥居が四つ数える。綾子は合わせようとして早くなる。二度目も半端だった。三度目、皆の音が終わったあとに、缶の縁を叩いた。
甲高い音が一つ残った。鳥居はすぐ次のリズムへつなげ、その遅れを始まりに変えた。誰も困らず、曲も止まらなかった。
帰り道、いつもの横断歩道が点滅を始めた。前の女性が走り、男性が続く。綾子も一歩踏み出したが、足を戻した。向こう側でバスが発車する。乗る予定だった便だ。胸が急く。それでも赤信号の前に立つと、夜風が頬へ届いた。
一分半後、青が点いた。綾子は誰もいない横断歩道を、走らず最初の一歩から渡った。