万願寺の空洞

野々村伊織は、告発文の公開ボタンを押す直前だった。

市役所の契約職員として働き始めて一年。係長は、伊織の資料だけを会議で笑い、残業を断ると「正規じゃない人は身軽でいい」と言った。録音はない。それでも、日時と発言を思い出せる限り書き、個人名を入れた文章をSNSに用意した。

公開すれば、誰かが味方してくれるかもしれない。逆に、自分の契約だけが先に終わるかもしれない。

蒸し暑い夜、伊織は役所裏の居酒屋へ入った。店内は空で、炭の赤だけがカウンターを照らしている。

夏限定の万願寺唐辛子が網へ載る。皮が熱でふくらみ、ぱん、と小さく破れた。焦げた青い香りが立ち、刷毛で塗った醤油が炭へ落ちて、煙に甘さが混じる。

皿の一本を箸で押すと、薄い皮の内側は大きな空洞だった。種が数粒、白く張りついている。

「どれが辛いか、分かります?」

伊織が聞くと、店主は首を振った。

「焼く前は、だいたい同じ顔です」

伊織は端から噛んだ。皮は柔らかく、肉厚な身に青い甘さがある。二口目で種を噛み、舌の一部だけが急に熱くなった。

公開予定の文章には、確かな事実と、推測と、怒りが一緒に入っていた。係長の目的まで決めつけた箇所もある。全部を黙る必要はないが、全部を同じ火力で投げる必要もない。

伊織は投稿画面を閉じた。代わりに新しい表を作り、日付、場所、発言、同席者、自分の対応を列にした。推測は別欄へ移す。職員組合の相談窓口を調べ、翌朝の予約フォームに入力した。

〈契約更新への影響を含め、正式な相談手順を確認したい〉

送信したあとも、係長と顔を合わせる怖さは消えなかった。証拠が足りないと言われるかもしれない。

相談の予約番号が画面に出た。伊織はその番号を私物のメールへ転送し、職場の端末にしかない記録を持ち出さずに済む範囲で整理した。正しさより先に、消されない形を一つ作った。

最後の万願寺は辛くなかった。焦げた皮を噛むと、空洞の向こうから温かな汁が出てきた。伊織の舌には、先ほどの種の熱だけが細く残っていた。