三つ目の椅子
取調室には、椅子が二脚しかない。
仁科直央警部補がそう言うと、宇佐美英嗣は首を振った。捜査資料を暴力団へ流した疑いをかけられた現職刑事。前夜、情報漏えいを認める供述調書に署名したが、朝になって撤回した。
「昨日は三脚あった。俺の右後ろに、羽室副署長が座っていた」
「入室記録には、担当刑事とあなたしかいない」
「だから消されたんだ」
「副署長は何をした」
「妻を共犯で逮捕すると言った。息子の学校にも警察車両を並べると」
直央は録音を聞き直していた。声は二人分だけ。宇佐美の主張を裏づける第三の声はない。
「あなたは捜査員だった。録音に入らない位置も、記録の穴も知っている」
「だから嘘だと?」
「だから、証拠を出して」
宇佐美は床を顎で示した。
「右後ろ。椅子の脚が欠けてた」
直央が机をずらすと、床材に半月形の新しい傷が四つあった。常設の二脚は脚先が丸い。半月の傷を付ける古い椅子は、庁舎内で一種類しかない。副署長室の来客用だ。
内線が鳴る。羽室本人だった。
「床の傷など、何の証明にもならん。被疑者の作り話に付き合うな」
直央は返答せず、副署長室の備品台帳を開いた。来客用椅子一脚が、昨日十九時から二十二時まで『修理搬出』。搬出業者欄は空白だった。
宇佐美が低く言う。
「俺は情報を流したかもしれない」
「かもしれない?」
「供述を撤回すれば、全部嘘に見える。だから本当のところも言えなくなった。あの人はそれを狙った」
罪を認めるのか否かすら、脅迫に汚されている。直央が羽室を告発すれば、署内で昇任の道は消える。黙れば、第三の椅子は最初から存在しなかったことになる。
直央は取調べを中断し、副署長室へ向かった。羽室は立ち塞がったが、その脇に半月形の脚を持つ椅子がある。一本だけ、脚先の保護具が欠けていた。
直央は椅子を両手で持ち上げ、取調室へ運んだ。四つの傷に脚を重ねる。ぴたりと合った。
宇佐美の見ている前で、直央は三つ目の椅子を証拠番号一番として撮影した。