三つ目の音

乃愛は映像制作会社を出ると、すぐ両耳にイヤホンを入れた。駅までの十二分、話しかけられず、考え事もしなくていい。好きな曲を大きめに流せば、今日言えなかったことも、明日言わなければならないことも薄くなった。

 音響担当の牧野冬馬は、仕事中も無口だった。音を扱う人なのに本人の声は小さく、打ち合わせでは波形を指して「ここ」か「違う」と言うだけ。人より機械のノイズに詳しい。

 ある夜、乃愛がイヤホンを取り出すと、冬馬が右耳を指した。スマートフォンのメモ画面には一文ある。

『駅まで、片方だけ外して、三つ録る』

「何を?」

 冬馬は周囲を見回し、録音アプリの丸いボタンを押す仕草をした。答えはそれだけだった。

 会社では一日中、演者の声や効果音を聞いている。それなのに、自分に向けられた小さな声ほど聞き逃してきた。相談されれば返事に困るし、気づけば何かをしなくてはならない。両耳を塞ぐ帰り道は、誰にも役割を求められない細い避難路だった。

 乃愛は左耳にだけ曲を流して歩いた。右側から、ビルの換気扇、自転車のブレーキ、居酒屋の皿が重なる音が入ってくる。録るほどのものではないと思いながら、一つ目に踏切、二つ目に閉店するパン屋のベルを録音した。

 三つ目が見つからないまま駅前へ着く。信号待ちで、同じ部署の新人が電話をしていた。「大丈夫です」と何度も言っているが、声が震えていた。乃愛は普段なら聞こえないふりをする。自分だって誰かに踏み込まれたくない。

 信号が青になり、人が流れ始める。新人は電話を切り、深く息を吐いた。その呼吸が、右耳に届いた。

 乃愛は録音ボタンを押しかけてやめた。人の弱さを素材にするのは違う気がした。

「お疲れさま」

 新人が驚いて振り返る。乃愛は何を聞いたか説明せず、コンビニの明かりを指した。

「温かいもの、買って帰らない?」

 左耳ではまだ曲が続いていた。乃愛は再生を止め、外していた右だけでなく、左のイヤホンもポケットへしまった。