三センチの余白
椎名灯里は、机の端から三センチのところに鉛筆で線を引いた。
「何の線?」と橘川凪紗が聞いた。
「余白」
「机に余白って必要?」
「必要。絵は端まで描くと息ができないから」
美術室が使えず、二人は放課後の教室でデッサンをしていた。ほかの部員は先に帰り、石膏像の代わりに、窓辺の花瓶を描いている。西日が強すぎて、花の影は机を二つまたいだ。
灯里は来週、美術大学の予備校へ申し込むはずだった。凪紗はその話を何度も聞いていた。けれど今日、灯里の鞄には申込書が折れたまま入っている。
「出さないの」
「うん」
「どうして」
「家から通えるところにしなさいって。美大じゃなくて、普通の大学」
灯里は花瓶の輪郭を消した。紙はこするほど灰色になった。消し屑を払う指には、いつも絵の具がついている。今日は何もついていないのが、凪紗にはかえって寂しく見えた。
凪紗は励ましの言葉を探したが、どれも教室のポスターみたいに平たかった。「夢を諦めないで」も「親を説得しよう」も、灯里の家の夕食を知らない人の言葉だ。
代わりに、机の三センチの余白へ小さな扉を描いた。取っ手までつけた。
「落書き禁止」
「椎名が先に線を引いた」
「これは構図の研究」
「じゃあ扉も構図」
凪紗は扉の向こうに階段を足した。灯里が一段、また一段と描き足す。机の端へ向かう階段は、三センチの中でどこまでも続いた。
「出口?」と灯里。
「入口かも」
「どこへ」
「まだ決めなくていい場所」
灯里は黙った。窓の外で運動部の掛け声が止み、教室に鉛筆の音だけが残る。
やがて彼女は申込書を出し、折り目を机の角で伸ばした。
「出すの?」
「分からない。でも、今日捨てるのはやめる」
凪紗はうなずいた。それ以上は言わなかった。
帰る前、二人は机の線と扉を消した。薄い跡だけが残り、夕日がそこを細く光らせた。
灯里は三センチの余白を指で測った。
「これだけあれば、息できるかな」
「二人なら六センチ」
二人は並んで教室を出た。答えは出ていなかったが、紙の端には、まだ描いていない白さが残っていた。