三人分の鍋

文香が鍋の蓋を開けると、母は「千景が来るまで待って」と言った。

白菜はもう煮えすぎて、縁が透けている。

「先に食べようよ」

「家族がそろってから。千景は旦那さんの夕飯も作って偉いわね」

母は時計を見た。

「あなたは一人だから時間が自由でいいけど」

文香は火を弱めた。

三十分遅れて、妹の千景が現れた。コートも脱がず、「ごめん、夫と喧嘩してきた」と言う。

母は聞こえなかったように笑った。

「文香を見てると、結婚は急がなくてもいいと思うでしょう?」

「どういう意味?」

「自由も悪くないってことよ。千景は家庭があるから大変だけど幸せ、文香は気楽。どちらも長所ね」

どちらにも逃げ道のない褒め方だった。

千景は鍋の前に座り、空いていた父の席へバッグを置いた。父が亡くなってからも、母はその席を使わせなかったのに。

「そこ、お父さんの席」

「今日は三人分の鍋でしょ」

千景はバッグをどけず、自分の椅子を少し横へずらした。

文香も隣へ移る。母と向かい合う形ではなく、三人が斜めになる。

母は不満そうに豆腐をすくった。

「千景、旦那さんに謝りなさいよ。文香みたいに一人になるわよ」

文香は取り皿を置いた。

「私を脅しに使わないで」

「そんなつもりじゃ」

「じゃあ、千景に千景の話だけして」

千景が箸を止めた。

「私も、文香を慰めに使わないで。お姉ちゃんより幸せなんだから我慢しろって言われるの、もう嫌」

母は鍋へ視線を落とした。

「二人とも、今日は何なの」

「今日は同じことを言う日みたい」

文香は笑わずに答えた。

千景が、煮え崩れた白菜を文香の皿へ入れる。

「これ、好きだったよね」

「くたくたのやつね」

「私は芯が残ってるほう」

母がまた「姉妹なのに正反対」と言いかけた。

文香と千景は同時に首を振る。母は口を閉じた。

食後、母が「次は千景の家で」と言った。

千景は「夫と相談してから」と答え、文香は「私は別に誘って」と続けた。

三人を一組にする約束はしなかった。

帰り際、文香は父の席から千景のバッグを持ち上げた。

椅子は空いたままだったが、もう誰の比較にも使われていなかった。