三秒の空白
卒業ライブの一曲目は、死んだドラマーの葛西冬弥が予約投稿した伴奏で始まった。
伊吹杏奈は中央のマイクを握り、右側の空席を見ないようにした。そこには冬弥のドラムセットだけが置かれている。事故から半年たっても、スティックの先には彼の指の跡が残っていた。
配信画面の波形には、サビの直前だけ三つの黒い穴が並んでいた。編集ミスではない。冬弥は空白も演奏だと言い、無音の長さに誰より厳しかった。
イントロのクリックに、冬弥の声が混じる。
「三秒待って」
バンドの合図だった。サビへ飛び込む前、三秒だけ全員で息を止める。せっかちな杏奈が走らないよう、冬弥が決めたルールだ。
けれど事故の日、杏奈は同じ言葉をメッセージで送っていた。駅前で待ち合わせ中、録り直した歌を聴かせたくて〈三秒待って〉と送信した直後、冬弥は横断歩道で車にはねられた。警察は、スマートフォンを見ながら信号を渡ったと説明した。
Aメロを歌うたび、杏奈の喉は狭くなる。ギターの白河透真が横目で支えた。客席の誰も、彼女が自分の五文字で冬弥を殺したと思っていることを知らない。
「まだ、走らないで」
冬弥の二度目の声。予定どおり、サビ前に伴奏が消えた。
一秒目。タイヤが路面を擦る音。
二秒目。小さな子供の泣き声。
三秒目。冬弥のスティックが、ガードレールを三回叩く音。
そしてサビが爆発する直前、現場で録られた少年の声が入った。
――お兄ちゃんが、ぼくを押してくれた。
客席の最前列で、小学生の少年が立ち上がった。事故のあと転校し、今日だけ母親に連れられて戻ってきた子だった。
杏奈は歌えなくなった。冬弥は画面を見て飛び出したのではない。赤信号へ走った子供を追い、道路の外へ押し戻した。彼のスマートフォンは、曲の素材を集める録音モードのままポケットに入っていたのだ。
最後のサビは客席が歌った。冬弥のドラムだけが、予約された音源の中で正確に三秒を待ち、誰より早く次の拍へ進んだ。
「三秒待って」
曲の最後、杏奈は同じ言葉を囁いた。
それはもう、死なせたメッセージではない。自分より先に誰かを助けるため、冬弥が世界に頼んだ三秒だった。