三粒の黒豆
芙実は黒豆を三粒だけ取った。
元日の重箱は、母の決めた順番で回ってくる。田作り、昆布巻き、数の子。最後に黒豆を年の数だけ食べれば、まめに働けるのだと、毎年同じ説明がつく。
「二十九粒よ」
母が小皿を差し出した。
「三粒でいい」
「縁起ものなんだから」
父が日本酒を注ぎながら笑う。「二十九にもなって好き嫌いか。従妹の美咲は今年、二人目だぞ」
芙実は三粒を箸先で離して並べた。つやのある黒い丸が、小さな句点のように見えた。
「来年のお正月は帰らない」
父の徳利が止まり、母が「何を急に」と言った。
「急じゃないよ。毎年、帰るたびに来年はやめようと思ってた」
「家族でお正月を過ごすのが、そんなに嫌?」
「一月一日は嫌。人数と年齢と結婚を数えられるから」
母は重箱の蓋をずらした。「気にしすぎよ。親戚はみんな心配してるだけ」
「心配されない日に会いたい」
芙実はスマートフォンのカレンダーを開いた。二月の第三土曜日を指で押し、〈実家でお茶・二時間〉と入力する。
「来年じゃなくて、来月また来る。午後二時から四時まで。おせちも親戚もいない日に」
父は「予約制か」と鼻で笑った。
「そう。予約があれば、来られる」
母はしばらく芙実の画面を見ていた。やがて黒豆の小鉢を自分の前へ戻し、二十九粒を数えるのをやめた。
「二月なら、梅の羊羹が出るわね」
許されたわけでも、分かり合えたわけでもない。ただ、母の声から一月一日の硬さが少し抜けた。
芙実は三粒目を噛んだ。甘く煮た皮の中に、かすかな塩気がある。
父は杯を指で回しながら、『二月は親戚を呼ばなくていいのか』と聞いた。芙実は『呼ばないで。三人だけなら来る』と答える。母は台所の卓上カレンダーにも同じ日を書き、横に〈羊羹〉と小さく添えた。〈娘帰省〉とは書かなかった。芙実はその違いを確かめ、残りの黒豆には箸を伸ばさなかった。三粒で十分だった。
カレンダーには、帰省ではなく予定として、二時間だけの四角ができていた。