両耳を空けた夜

音響制作会社の共有フォルダに、旧葉擦トンネルで環境音を録る際の注意が残っている。

《坑内では両耳を同時に空けてはいけない。必ず片耳を音で塞いでおくこと》

三門奏汰は二十七歳のサウンドエンジニアだった。奇妙な規則ほど、昔の作業員が反響で平衡感覚を失わないための知恵だと考える。右耳にイヤホンを入れ、一定音を流しながら、左耳で録音を監視した。

深夜一時、トンネル中央に無指向性マイクを置く。

録音メモ

01:06 風音なし

01:09 滴下音 4秒間隔

01:13 遠方に足音。自分の動作より0.5秒先行

奏汰が右手を上げる前に、録音モニターから衣擦れが聞こえた。右足を動かす前に、靴底が鳴った。音が未来を半秒だけ先に進んでいる。

原因を確かめたくなり、奏汰は一度だけ右耳のイヤホンを外した。

両耳が空いた瞬間、トンネル内の音がすべて消えた。

滴も呼吸も心臓も聞こえない。その代わり、頭の内側で男の声がした。

――今、振り向く。

奏汰は振り向かなかった。

――走る。

声に逆らうため、ゆっくり歩いた。それでも足は勝手に速まり、出口まで全力で駆けた。外へ出ると音が一斉に戻り、イヤホンから「遅い」と囁かれた。

会社でデータを確認すると、録音ファイルは無音だった。ただし左右チャンネルの波形だけが、奏汰の心拍と同じ間隔で交互に膨らみ、最後は二つ同時に止まっていた。削除して帰宅したが、翌朝、音楽アプリに見知らぬ曲が追加されていた。

《両耳》

再生時間 00:00

再生しても曲は鳴らない。ただ、字幕機能だけが文章を表示した。

《次にコーヒーをこぼす》

直後、奏汰の肘がマグに当たった。

《上司から電話が来る》

着信が鳴った。

奏汰はアプリを閉じた。夕方、電車の中で勝手に再生が始まり、字幕が一文字ずつ増えた。

《今夜、玄関を三回叩く音がする》

《あなたは開けない》

《だから、こちらが開ける》

帰宅すると、スマートロックは施錠されていた。奏汰が息を止めた瞬間、イヤホンの左右から同時に解錠音が鳴った。

音楽アプリの最後の字幕は、すでに過去形だった。

《両耳が空いた》