九回裏の未送信

引退会見まで、あと十分だった。

創士は無人のベンチで、右肘のサポーターを外していた。球場の照明は半分落ち、観客席に美琴だけが残っている。球団広報として会見資料を持ってきた彼女は、昔と同じように一塁側からグラウンドへ降りた。付き合っていた頃、美琴は試合後の土を小瓶に入れ、「復帰戦で返す」と預かった。その瓶も今夜、資料の横に置かれている。

「署名、ここ」

「もう撤回できない?」

「あなたが決めたことでしょ」

三年前、創士は手術を受ければ復帰できると言われた。けれど成功率は高くなかった。美琴は「待つ」と言ったが、創士は彼女の人生を縛りたくなくて、別れを選んだ。

会見用のタブレットに、古いクラウドデータが同期された。創士が確認しようとすると、メッセージアプリの下書きが開く。

〈手術が終わったら、結婚してほしい。戻れなくても、隣にいてほしい〉

作成日は、別れを告げた日の午前零時。送信されないまま、端末だけが壊れた。

美琴は画面を見た。資料を持つ指が白くなる。

「嘘つき」

「送れなかった」

「別れるって言った口で、こんなの書いたの?」

「成功したら送ろうと思った」

「成功しなかったら?」

「君を自由にするつもりだった」

「そのせいで、私は手術の日も知らなかった」

美琴は病院へ行けなかったことより、行くかどうかを決める権利すらなかったことを怒っていた。

美琴は乾いた笑いを漏らした。

「自由って、選ばせないことじゃないよ」

スコアボードの時計が進む。会見まで六分。

創士は肘を曲げた。痛みはもうない。ただ、ボールを投げる力も戻らなかった。引退を決めた今なら、下書きの言葉を口にできる気がした。

「今でも」

「遅い」

美琴は左手を見せた。指輪はない。だが来月、別の球団へ移るという。創士が現役でいる限り断っていた誘いを、引退発表の朝に受けたのだ。そこで待っている人がいるのか、創士は聞けなかった。

「送って」と彼女は言った。

「返事は?」

「しない。昔の私に届いたことにする」

創士は三年遅れで送信した。美琴の端末が短く震える。彼女は通知を開かず、会見資料をベンチへ置いた。

場内放送が、記者の入場を告げる。

創士は引退届の最後の欄に署名し、ペンを置いた。