乾かない靴跡
朝起きると、家族三人は子ども部屋を物置だと思っていた。
机、絵本、黄色い長靴。
誰の物か分からない。
母だけが、胸の中に大きな空洞を感じた。
写真には夫婦二人しか写っていない。
学校へ電話しても、その住所の児童はいないと言われた。
玄関に、小さな濡れた靴跡があった。
外は晴れている。
拭いても乾かず、門の向こうへ続いている。
忘れられた人の足跡だけは、誰かが最後までたどるまで乾かない。
母は黄色い長靴を抱え、跡を追った。
夫は止めた。
「誰を探すんだ」
「分からない」
「なら危ない」
「分からないから探すの」
靴跡は通学路を進み、パン屋で止まり、公園の滑り台を一周した。
店主も子どもを覚えていない。
それでも、
「なぜか毎朝、甘いパンを一つ取っておく」
と言った。
川沿いへ下りる。
足跡は古い水門の小屋へ入っていた。
中に、子どもがいた。
黄色い長靴の片方だけを履き、膝を抱えている。
「遅い」
母は名前を知らない。
顔も思い出せない。
それでも抱きしめた。
「ごめん」
「忘れた?」
「うん」
子どもは泣かず、
「お母さんだけ、足跡を見てくれた」
と言った。
家へ連れて帰る。
夫は知らない子を見る目をした。
子どもは自分の部屋へ入り、机の引き出しから家族三人の絵を出した。
母が名前を尋ねる。
子どもは答えた。
その名を口にすると、夫が顔を覆った。
記憶が洪水のように戻ったらしい。
なぜ消えたのか、子どもにも分からない。
前夜、両親の喧嘩を聞き、
「私がいなければいい」
と思ったことだけ覚えていた。
夫婦はすぐに、
「そんなことはない」
と言いかけた。
母は止めた。
子どもがそう思うほどの夜を作った事実は、否定で消せない。
三人で、喧嘩の内容を話した。
仕事と家計の問題。
子どものせいではない。
ただ「あなたのため」と互いを責めていたことは謝った。
玄関の靴跡は、帰宅するとようやく乾いた。
黄色い長靴は片方だけ残った。
雨の日、子どもは別の長靴を履く。
残った一足は玄関へ置いてある。
家族の誰かが「いなくなればいい」と思うほど苦しくなったら、言葉になる前に足跡を見失わないために。