乾杯は現地通貨で

園田遥香、土岐颯真、川瀬慎吾は、卒業旅行の最後の夜を、外国人客ばかりの小さな酒場で過ごした。三人とも現地語を話せず、メニューの一番上にある安いビールを指で三つ頼んだ。

「シンガポール配属になった」と颯真が言った。

遥香はグラスを上げた。「ここより近いね」

「近いかどうかで海外を測るなよ」

慎吾は泡を指ですくった。「俺は地元の製粉所。実家から自転車で十二分」

颯真が吹き出した。「世界一近い配属」

「笑うな。俺が決めた」

遥香は乾杯しなかった。二人が見ると、彼女は財布から看護学校の入学案内を出した。

「四月から、また一年生になる。内定は断った」

「四年間、経済学やったのに?」と颯真。

「四年間やったから、向いてないって分かった」

慎吾が静かにグラスを合わせた。「じゃあ、就職祝いじゃないな」

「何祝いにする?」

颯真が少し考え、「解散祝い」と答えた。

三人は笑った。周囲の客もつられてこちらを見た。笑えたことが、それぞれを傷つけた。

大学一年の歓迎会で、彼らは「世界を変える仕事をする」と酔って誓った。その言葉を四年間、自己紹介にも面接にも使った。けれど今夜、颯真は世界へ出て、慎吾は小麦粉を作り、遥香は人の体を学び直す。どれも間違いではないから、誰も相手を引き止められなかった。

「世界って、三人で見てた時だけ広かったね」と遥香が言った。

颯真は聞こえないふりをして、泡の消えたグラスを飲み干した。

会計で、三人は残った現地通貨をテーブルへ全部出した。硬貨を等分すると、一枚だけ余った。

「記念に誰か持つ?」と遥香。

颯真は首を振り、慎吾も手を出さなかった。

店を出たあと、颯真は空港行きの地下鉄へ、慎吾は夜市へ、遥香は宿へ戻った。三人とも別の角を曲がり、振り返らなかった。

翌朝、酒場の店員がテーブルの隙間から一枚の硬貨を拾った。表には三人が読めない国の言葉で、旅人の幸運を願う文句が刻まれていた。

硬貨はレジ脇の寄付瓶へ落とされ、誰の未来にも換金されなかった。