予約表の引っ越し

千石梨央が鏡を拭き終えると、店内のタブレットから予約が一件ずつ消えていった。

午前十時のカット、十一時のカラー、午後の着付け。三百十二件あった翌月分が、数分でゼロになる。

別所岳人社長はレジ横で顔を赤くした。

「客のデータを盗んだな」

「お客様が自分で変更したんです」

梨央はスマートフォンを見せた。客には、店舗閉鎖とも独立とも告げていない。ただ、担当美容師全員が退職することと、希望者には新しい勤務先を案内するとだけ通知した。個人情報は一件も持ち出さず、店の公式配信から客自身が選べるようにした。その選択が、三百十二件すべて同じ方向を向いただけだった。

別所は売上目標を達成しない者に練習用ウィッグ代を払わせ、閉店後の講習を無給にした。だが客前では「家族のような店」を演じ、雑誌には自分が技術指導したと語っていた。

「ブランドは俺のものだ。お前らはハサミを持ってるだけだろ」

そのとき、フランチャイズ本部の担当役員が入店した。手には解除通知がある。

「資格者数と研修時間の虚偽報告が確認されました。本日付で看板の使用を停止します」

続いて労働基準監督署の職員が、バックヤードの入退室記録を確認し始めた。別所が削除したはずの講習映像は、クラウドに自動保存されていた。

別所は梨央へ声を落とす。

「戻れば店長にする。歩合も上げる」

「店長なら、もう決まっています」

窓の向こうに、新しいサロンの看板が見えた。空き店舗だった隣のビルを、顧客の一人である不動産会社経営者が貸してくれたのだ。スタッフは全員、共同出資者。予約管理画面には、先ほど消えた三百十二件が同じ順番で並んでいる。

銀行から別所へ、融資の前提だった加盟契約の終了により、追加資金は出せないと電話が入った。家賃の引き落としは三日後だった。

本部社員が古い看板を外し始める。

梨央は新しい店の扉を開け、最初の客を迎えた。

予約表が丸ごと隣へ引っ越した瞬間、別所の店には、未来の一席も残っていなかった。