二十分後の香り

香水会社の研究室で、伊佐見香澄は試香紙より人の手首を信じていた。

つけた直後ではなく、二十分後、二時間後、翌朝まで嗅ぐ。同じ配合でも、汗や布や気温で金属のような匂いが立つことがある。香澄は原料を一滴未満ずつ動かし、発売直前でも処方を止めた。

開発本部長の柳瀬啓吾には、それが決断の遅さに見えた。

「最後は好みだろう。解析ソフトが最適値を出しているのに、何日も紙を嗅いでいる。給料泥棒に新ブランドは任せられない」

香澄は旗艦香水の最終試験中に解雇された。柳瀬は彼女が外していた合成香料を戻し、若者向けに香りを強くした。

発売日は売れた。だが一週間後、「時間がたつと硬貨のような匂いがする」という投稿が増えた。原因は肌の脂質と反応する微量成分だった。返品は全国へ広がり、百貨店は売り場から商品を下げた。広告費を注ぎ込んだ限定店も閉まり、発売月の利益は回収費用だけで消えた。

柳瀬は香澄の試験不足を責めた。しかし保管庫には、二十分後に異臭が出ると赤字で書かれた彼女の記録と、柳瀬が出荷を承認した署名が残っていた。

香澄は独立系の小さな香房へ移った。そこで、雨上がりの石畳を思わせる香りを作った。最初はほとんど匂わず、体温が上がるにつれて木と花が静かに現れる。名前より先に予約が入り、試作品百本は一日で完売した。国際香粧展では、派手さではなく時間による変化を評価され、審査員賞を受けた。

展示会最終日、世界展開するホテルグループが客室用アメニティの選定会を開いた。柳瀬は値下げした旗艦香水を持ち込み、香澄の新作は小規模で供給できないと笑った。

担当者は両方を手首につけ、二十分待った。

柳瀬の香りから金属臭が立った。香澄の香りは、温められた木のように柔らかく残った。

担当者は年間契約書を香澄へ差し出した。

「処方ではなく、二十分後まで責任を持つ人と契約します」

香澄が署名すると、世界六十都市の客室導入数が画面に表示された。柳瀬の会社は候補欄から消えていた。