二本目の歯ブラシ
十四時五十分。桑名湊人は退去前の部屋で、津久井瑞季と向かい合っていた。管理会社が鍵を回収するまで十分。別れて八か月、二人は昨夜マッチングアプリで再会した。
瑞季のプロフィールには〈結婚を考えられる相手〉、湊人の欄には〈家庭を持ちたい〉とあった。三年暮らしたこの部屋で、互いに一度も口にできなかった言葉だ。
洗面台には歯ブラシが二本残っている。青は湊人、白は瑞季。彼女が出ていった後も捨てられなかった。青と白は旅行先のホテルでもらった安物で、毛先はもう開いている。瑞季は毎月替える人だったのに、この二本だけは引っ越し箱へ入れ続けた。湊人も処分できず、洗面台を見るたび、終わった生活に二人分の幅だけ残されている気がした。今朝、湊人は二本を捨てるつもりで袋へ入れたが、白だけが何度も洗面台へ戻った。
「新しい人のかと思った」と瑞季が白い柄を見る。
「替えてないだけ」
「八か月も?」
「使ってはいない」
瑞季は笑いかけてやめた。彼女は宅配便の誤配を取りに来ただけだと言う。段ボールには〈新生活カタログ〉と印刷されている。
「相手、いるの?」と湊人が聞く。
「アプリで探してるんだから、いないよ」
「俺たち、何で別れたんだっけ」
「湊人が『結婚には向いてない』って言ったから」
「会社の先輩の話だよ。浮気して離婚した人」
「主語、なかった」
「瑞季も『このままは無理』って」
「この狭い部屋の話」
二人は初めて、同じ夜の会話を最後まで説明した。残り三分。
管理会社の担当者が来て、古い書類を差し出した。
「こちら、更新時に未提出だった同居継続申請です。双方の署名があったので保管していました」
用紙の希望欄には、湊人の字で〈次回は二LDK〉、瑞季の字で〈できれば長く住む〉。互いに見せる前に、喧嘩が起きた日のものだった。
アプリが震え、昨夜の瑞季の下書きが通信復旧で届く。
〈右にしたのは、まだ二人分を諦めてないから〉
湊人は白い歯ブラシをゴミ袋から戻した。二人は空の部屋を出て、一本ずつ持った合鍵を同時に返した。