五分遅い柱時計
妙乃の柱時計は、いつも五分遅れている。直しても翌週には遅れるので、そのままにしてある。孫の玖実は「時計じゃなくて飾りだね」と言うが、妙乃にとっては、帰宅時刻を少しだけ先延ばしにしてくれる便利な時計だった。
玖実が塾から戻るのは八時。柱時計が七時五十五分を指すころ、世間ではもう八時である。妙乃はその五分で、味噌汁へ葱を散らし、焼いた厚揚げへ生姜をおろす。焦らず待てる五分だった。
今夜は雨で、八時十分になっても傘の音がしない。妙乃は時計の遅れを頭の中で足し、また足し、しまいには何時なのか分からなくなった。厚揚げの表面から湯気が消え、生姜だけが白く光っている。
電話をしようとしたとき、縁側のガラスに傘が当たった。玖実は玄関ではなく庭から現れた。
「裏の水路、蛙がいっぱいいた」
「だからって庭から帰る人がありますか」
叱る声が少し上ずった。玖実は濡れた靴下を脱ぎながら、遅れた理由を蛙の数まで詳しく話した。
厚揚げを焼き直すと、生姜の香りが立ち、味噌汁の葱がもう一度鮮やかになった。玖実は熱い厚揚げを箸で割り、「時計、また遅れてる」と言う。
「知っています」
「直そうか」
妙乃は少し考えて、春になったら、と答えた。雨音の中で振り子は悠々と往復している。五分遅い家の食卓には、帰ってきた者の濡れた髪と、焼き直した生姜の温かな匂いが満ちていた。
玖実は食後、振り子の箱を開けて耳を近づけた。「疲れてる音がする」と言い、妙乃にも聞かせる。妙乃には昔と同じ、こつ、こつ、という音にしか聞こえない。濡れた靴下をストーブのそばへ吊るすと、雨と毛糸の匂いが立った。玖実は蛙を七匹見たと指折り数え、八匹目だったかもしれないと言い直す。その話の間にも時計は遅れたまま進み、食卓の時間だけを世間から少し守っていた。
妙乃は玖実が寝たあとも振り子を止めなかった。正しい時刻より、その音が途切れず朝まで続くことのほうが大切だった。