代役の息継ぎ

 伊佐山玲が古書喫茶「幕間」で買おうか迷っていたのは、古い舞台脚本だった。

 表紙には有名な女優の写真があり、主役の台詞にはほとんど書き込みがない。ところが「侍女二」とだけ記された役の箇所には、鉛筆の矢印や丸が密集していた。

「盆を置いてから見る」

「ここで笑わない」

「主役が噛んだら一拍待つ」

 台詞は三つしかない。けれど最後の登場場面には、二重線で「ここで息をする」と書かれていた。

 玲のスマートフォンには、小劇場からの出演依頼が届いている。正規の役ではなく、主演女優の代役兼、群衆役。稽古へ通っても本番で名前を呼ばれない可能性が高い。玲は二年前まで演劇をしていたが、目立つ役を得られないまま辞めた。久しぶりに届いた依頼が代役だと知り、「都合がつきません」と下書きした。

 本当は都合がつく。怖いのは、また舞台袖で待つことだった。誰かが無事に演じれば、自分の出番はない。その時間を、必要とされなかった時間だと思ってしまう。

 店内に客は玲ひとり。閉店の音楽が流れると、店主は脚本の破れを検めた。主役の写真がある表紙ではなく、配役一覧を上にして会計台へ置く。そして薄紙で包む際も、写真を内側へ折り込み、「侍女二」の文字が透ける裏表紙を外へ向けた。

 玲が少し笑うと、店主は包装紐を結ばなかった。代わりに紙帯を一本巻き、抜き取ればすぐ開くよう端を浮かせる。舞台袖で台本を急いで開く人へ渡すような手つきだった。

 玲は辞退文を消した。

「参加します。代役の稽古日も全日空けられます」

 送信すると、すぐ既読がついた。返事はまだ来ない。

 店主は店内の照明を一つずつ落とした。最後に残ったのは、客席ではなく、カウンター脇の狭い灯りだった。玲はその下で包装を開き、「侍女二」の最初の台詞を声に出さず読んだ。

 三つしかないのではない。三つある。その三つがなければ、場面は次へ進まない。待つ時間もまた、台詞の外側で舞台を支える時間だった。

 閉店の扉が開くまで、玲は二重線の「ここで息をする」に合わせ、ゆっくり息を吸った。