仮予約の金曜日
「仮予約は、予定に入りません」
江波戸真由は、会議室を押さえただけで安心する同僚にいつもそう言っていた。確定し、相手が承諾して、初めて予定になる。
外部コンサルタントの相良誠志と仕事をした半年間、二人の金曜夜はずっと仮予約のままだった。
会議後に食事へ行きたい。けれど契約中の取引先と私的に会えば、社内規程に触れる可能性がある。互いにその線を越えず、代わりに毎週金曜の十八時半から、必要以上に長い進捗確認を入れた。
最終金曜日。午後五時五十分、最後の報告書が承認された。
「これで全成果物、納品完了です」
「半年間、ありがとうございました」
相良はいつも通り礼儀正しく頭を下げた。机の上には貸与パソコン、入館証、秘密保持確認書。返却物は一つも欠けていない。真由は確認欄へ署名しながら、胸の中だけで、終わらないでと思った。
午後六時。契約管理システムに〈終了〉の表示が出る。
相良は入館証を真由へ渡し、首元から社員用ストラップが外れた。彼は一歩下がる。
「以上で、御社との契約関係は終了です」
「はい」
その瞬間、真由のスマートフォンが震えた。個人カレンダーへの招待だった。
〈本日十九時/夕食(仮)〉
参加者には「相良誠志」と「江波戸真由」。会社名も部署名もない。場所は、二人が会議のたび窓から眺めていた小さなレストランだった。
相良は何も言わず、断られる覚悟をした顔で立っている。告白の文面も、言い訳もなかった。ただ、契約が終わる一分後まで待った事実だけがあった。
真由は予定を開き、「(仮)」の二文字を削除する。それから開始時刻を十九時ではなく十八時半へ変え、承諾を押した。
「三十分、早めても?」
「もちろんです」
相良が笑い、彼女のコートを手に取る。会議室を出る前、真由は彼の袖をつかんだ。
「もう、江波戸様ではありません」
「では、真由さん」
「はい。誠志さん」
二人で入館ゲートを抜ける。相良は仕事中には決して触れなかった彼女の手を取り、指をゆっくり絡めた。
仮予約は予定に入らない。
だから真由は、自分の手で「仮」を消した。
金曜の夜は、会議ではない二人の最初の予定になった。