余白の小舟
野々村瑞季の父は、本を読むと余白に小さな舟を描く癖があった。
鉛筆で三本の波、その上に三角の帆。父が亡くなったあと、蔵書の大半は図書館へ寄贈された。瑞季は処分に立ち会えず、半年たってから急に、あの舟をもう一度見たくなった。
「寄贈した本を探せますか」
鳴海志津は銅色のかんざしで髪を留め、無表情で答えた。
「書き込みは禁止です」
「分かっています。父が書いたのは、寄贈する前で」
「禁止された行為は、事情で消えません」
胸が縮んだ。けれど鳴海は追い返さず、瑞季が持参した寄贈受領書を受け取った。登録番号の範囲を確認し、一般書架、閉架、他館への移管分を分けて一覧にする。
「全部見るのは無理ですか」
「百八十六冊です。今日中は無理です」
「そうですよね」
「今日中でなければ可能です」
鳴海は銅色のかんざしを抜き、先端で一覧の七冊に印をつけた。父が好んだ海洋小説と紀行文だった。
二人でページを確認した。一冊目にはない。二冊目にもない。三冊目の港町の写真集、その最後の余白に、小さな舟があった。
瑞季は指を触れかけて止めた。
「書き込みは禁止です」
鳴海の声が飛ぶ。瑞季は手を引っ込めた。
舟の下に、父の字で一行あった。
“瑞季は海を怖がるが、遠くを見る目をしている。”
父がそんなふうに自分を見ていたと知らなかった。泣きそうになり、写真を撮っていいか尋ねると、鳴海は複写申込書を出した。
「個人利用の範囲で。鉛筆の跡が薄いので、職員が撮影します」
数日後、受け取った複写は、舟だけが見やすい濃さに調整されていた。裏には資料名とページ番号が端正に記されている。
「ありがとうございます」
「書き込みは禁止です」
鳴海はそう言いながら、銅色のかんざしを外した。よく見ると、細長い金属には三本の波と三角の帆が彫られていた。
「それ、舟ですね」
「あなたのお父さまの講座で作りました。昔、図書館の工作会に来ていたので」
鳴海はそれ以上、父のことを語らなかった。ただ複写を保護袋に入れ、折れないよう厚紙を添えた。
「書き込みは禁止です。だから、残っているものは丁寧に読みます」
瑞季は小舟を胸に抱え、初めて父の本を借りるため、利用者カードを差し出した。