保険証書が切れた一分後
正午の鐘が十二回鳴り終えた一分後、飛空艇《銀燕号》は係留塔へ翼をぶつけた。
小さな事故だった。乗客に怪我はなく、右の浮力晶が一枚割れただけ。船長は笑って保険会社へ使いを出した。
戻った使者の顔は、事故より青かった。
「保険は正午で失効しています」
更新料の支払期限は今日の正午。昨日、航空社は経理担当ナジムを「空を飛べない者へ席代は払えない」と解雇していた。彼は毎年、期限の三日前に保険料を払い、受領時刻まで記録していた。
新任の会計係は、請求書を机の飾りだと思い、午後に払えば同じだと放置した。事故時刻は鐘楼と港の記録晶に残っている。猶予はなかった。
保険会社は、鐘楼の記録と衝突音を拾った港の監視晶を並べた。失効から事故まで六十一秒。数字は冷たく、言い訳の入る隙間がない。
《銀燕号》が差し押さえられると知るや、翌週の予約客は一斉に払い戻しを求めた。ほかの艇の保険期限も誰も把握しておらず、操縦士たちは飛行を拒んだ。翼を持つ会社が、一分の遅れで地上へ縫い付けられた。
浮力晶一枚の交換費は、飛空艇二隻分の利益に等しい。払えなければ《銀燕号》は担保として差し押さえられる。社長が事故時刻を書き換えろと迫ると、保険調査官は衛兵を呼んだ。
同じ空の下、ナジムは港湾救難隊の事務所で新しい保険証書を配っていた。嵐、火災、救助中の衝突まで艇ごとに補償範囲を整え、支払日も自動引落しに変えてある。
隊長は彼へ真鍮の操舵輪を模した徽章を渡した。
「君は操縦しない。だが君がいるから、我々は恐れず飛べる」
その夜の嵐で救難艇が一隻損傷したが、翌朝には保険金で修理が始まった。隊員の給金も救助活動も止まらない。ナジムは事故を消せなかったが、事故が組織の終わりになることを防いだ。
夕方、航空社の専務が息を切らして現れた。
「社長は誤解していた。役員待遇で戻ってくれ。保険会社にも君から説明を」
ナジムは救難隊の証書へ更新済みの印を押した。
「失効した保険は遡れません。解雇された私の契約も、更新される予定はありません」