先生のメトロノーム

音楽室の片づけで、古いメトロノームが見つかった。

亡くなった恩師が、卒業生へ貸したままになっていた物だ。

教え子は十年、楽器に触れていない。

演奏会の直前、恩師と喧嘩した。

「その速さでは、あなたの音が聞こえない」

と言われ、

「先生の好みに合わせるために弾いてるんじゃない」

と退室した。

翌週、恩師は急病で亡くなった。

メトロノームの振り子を動かすと、譜面台の前へ恩師が現れた。

「遅刻」

「十年です」

「それなら、まず調弦から」

恩師は、振り子が止まらず鳴っている間だけ音楽室にいられた。

教え子は楽器を借り、昔の曲を弾いた。

指が動かない。

音がかすれ、拍から遅れる。

恩師は容赦なく、

「そこ、急いだ」

「今度は怖がった」

と指摘した。

「最後に褒める気ある?」

「最後まで弾けば」

教え子は腹を立てながら続けた。

恩師の死後、音楽をやめたのは、謝れなかったからではない。

先生がいなければ、自分の音が正しいか分からなくなったからだ。

「先生の言うとおりに弾けばよかった?」

「私の言うとおりに弾く人なら、あの日追い出していた」

恩師は、喧嘩した日の言葉を説明した。

遅いテンポを勧めたのは好みではない。

教え子が失敗を恐れ、速さで音を隠していたからだった。

「先生が死んだから、直せなかった」

「私が生きていても、直すのはあなた」

「謝りたかった」

「聞いた」

「今?」

「あの日も。怒る人は、離れたくない人だ」

振り子の音が少し乱れる。

古いばねが弱っている。

恩師は譜面を閉じた。

「最後に一曲。私の指示なしで」

教え子は同じ曲を、昔よりずっと遅く弾いた。

音の間に、空白ができる。

指の震えも、息の音も隠れない。

終盤で振り子が止まりかけた。

教え子はテンポを合わせず、メトロノームより先へ進んだ。

最後の音が消えたとき、恩師はもういなかった。

「褒めてない」

空の音楽室へ文句を言う。

窓の外で、部活動の生徒が拍手した。

扉が少し開いていたらしい。

教え子は翌月、地域の初心者教室へ通い始めた。

教える側ではなく、最初から習う側として。

失敗すれば先生に直され、時々反論する。

古いメトロノームは修理せず、音楽室へ返した。

止まった振り子は、恩師のテンポを保存していない。

自分の速さで続きを弾く許可だけを、静かに残していた。