先輩のノートの余白

琴美の机の左側には、先輩が残した黒いノートがある。

広告の見出しを考える順番、色を選ぶ基準、顧客への質問。ページの端まで小さな字で埋まり、成功した案には赤い丸がついている。先輩が異動してから、琴美は新しい依頼を受けるたびノートを開いた。同じ順番で考え、似た言葉を使い、赤い丸の近くへ行こうとした。

だが、地方の小さな水族館から届いたポスター依頼は、どのページにも当てはまらなかった。夜の展示を知らせたい。派手ではなく、子どもだけでなく仕事帰りの大人にも来てほしい。琴美は先輩の過去案を三十件開き、青い背景、白い文字、魚の配置まで比べた。

午前中が終わっても、画面には何もなかった。

隣の席から昼休みの札が立つ。琴美は黒いノートの余白に、依頼文から浮かんだ言葉を一つだけ書いた。

〈帰る前に、海へ〉

先輩ならもっと短く、もっと強くするだろう。実績のある案と並べると頼りない。先輩の案をなぞれば、大きく外すことはなかった。上司も「前の雰囲気で」と言い、琴美自身も失敗しないことに安心した。ただ、採用されるたび褒められるのは先輩らしさで、琴美は自分の名前が署名欄にあることを後ろめたく感じた。比較して負けるのが怖いというより、比べられないものを出す方が怖かったのだ。余白の言葉は、その怖さの形をしていた。

琴美は消しゴムを手にしたが、紙の余白には鉛筆の跡が薄く残った。

ノートを閉じる。

代わりに、自分の白いメモ用紙を一枚出した。中央に同じ言葉を書き、その下に小さな魚の影を描く。上手ではない。けれど、昨夜疲れて駅を出たとき、水族館の青い看板を見た自分が少しだけ寄り道したくなる案だった。

琴美は完成形に見せず、「初案」と大きく付けて担当者へ送った。送信後、先輩のノートを引き出しにしまう。捨てるつもりはない。明日また読むかもしれない。

昼休みの終了ベルが鳴るまで、白いメモ用紙は机の中央に置いた。赤い丸はついていなかったが、余白もまだたくさん残っていた。