冷蔵庫の左半分
佐伯野乃花の部屋では、冷蔵庫の左半分が恋人の場所だった。
ヨーグルトも作り置きも、左が恋人、右が乃花。給料日には一本のロールケーキを真ん中で切り、左と右へ分けて入れる。帰宅時間が違っても、それだけは同じ日に食べる約束だった。
今月、乃花は故郷の支社への転勤を打診された。父の通院に付き添える距離になる一方、恋人が積み上げた仕事からは遠くなる。どちらを選んでも、誰かを見捨てた形になるのが怖かった。父が倒れてから、実家の母は「大丈夫」としか言わない。戻りたい気持ちはある。けれど恋人に言えば、仕事を辞めてついてくるか、別れるかを迫ることになる気がして、通知書を鞄の底へ隠していた。
給料日の夜、恋人は夜勤だった。乃花はココアのロールケーキを買い、いつも通り二つに切った。カカオの香りがし、冷たいクリームが切り口から丸く押し出された。
右半分を皿へ載せる。
乃花は端から一センチずつ食べた。スポンジはきめが細かく、フォークで押すと静かに戻った。急いで答えを出さなくても、押された形がそのまま決定になるわけではないのだと思った。
食べ終えるころ、左半分は箱の中で崩れずに残っていた。以前の乃花なら、不安な夜は相手の分まで食べた。翌朝「ごめん、また買う」と笑えば、話さなくて済んだからだ。
今日は左側へ手を伸ばさなかった。
乃花は空になった自分の皿をすぐには洗わなかった。一人分を食べた証拠を残したまま、転勤通知を封筒から出し、箱の下へ敷く。恋人の半分を載せると、勤務地の文字だけが切り口の横から見えた。
乃花はメッセージを一行送った。
「左、食べる前に紙を見て」
理由も希望も、まだ書かなかった。相手の人生まで自分で取り分けることはできない。だから、ケーキも通知も、半分をそのまま渡す。
冷蔵庫を閉める直前、乃花は自分の右側が空になっているのを見た。戻るか残るかは決まっていない。それでも今夜、二人の約束を食べ尽くさずに残せたことが、最初の相談になった。