制服の名札をほどく

佐橋奏絵は、母の遺品箱から中学時代の制服を引き出した。

紺の胸元に、白い糸で〈佐橋〉と縫いつけてある。母は卒業後も捨てず、「あのころの奏絵は素直だった」と言うたび押し入れから出した。

二十五歳で髪を短くしたときも、母は制服姿の写真を送ってきた。〈このころのほうが似合っていた〉。奏絵が転職を決めたときには、名札の見える胸元だけを拡大し、〈佐橋の娘なんだから堅実に〉と続けた。制服は服ではなく、母が呼び戻すための住所になっていた。

遺品箱の蓋には〈奏絵に返す〉と書いてある。けれど、返された記憶まで受け取る義務はなかった。

姉がビデオ通話の画面で、制服を残すよう勧めた。

「お母さん、これだけは大事にしてたよ」

「私が着ていたものなのに、母の形見になるの?」

「思い出でしょ」

奏絵はスカートのプリーツを広げた。校則どおりの長さへ、母が毎朝裾を確認した。ポケットには、隠していた青いマニキュアの小瓶がまだ入っていた。空になった瓶を見つけたとき、母は三日間、奏絵を「知らない子」と呼んだ。

奏絵は裁縫箱から糸切りばさみを出し、名札の端へ入れた。

姉が「切るの?」と声を上げる。

「名前だけ外す。制服は布の回収へ出す」

「名札は取っておくんだ」

奏絵は少し考え、首を振った。

「それも捨てる。今の私の名前は、服についていなくても分かるから」

糸を一本ずつ切ると、名札の下だけ布の色が濃かった。守られていたのではなく、光に当たらなかった跡だった。

姉はしばらく黙り、「私のセーラー服も一緒に出して」と言った。実家の天袋にあるらしい。

「自分で決めて」

「じゃあ、次に帰ったとき決める」

奏絵はそれ以上引き受けなかった。姉の制服まで処分する役には戻らない。

名札と空の小瓶を小さな袋へ、制服を回収袋へ入れた。袋の口を閉じる前、奏絵は一度だけ紺の布に触れた。

素直だった自分を捨てるのではない。素直でいなければ娘でいられない時間を、布と一緒に手放すのだ。