割引のなくなった水曜日
「割引だから、一緒に来てるだけ」
ボルダリングジムの受付で関係を聞かれるたび、諸星里帆はそう答えた。
相馬眞人と申し込んだ《バディ会員》は、二人一組なら月会費が安くなる。学生時代からの友人で、家も職場も近い。毎週水曜に待ち合わせる理由としては、それで十分だった。
眞人は里帆が高い壁へ挑むときだけ真下に立ち、落ちた身体を受け止めた。里帆は彼が指を痛めると、テーピングを巻いた。帰りはラーメンを食べ、次の課題を相談する。
周囲には何度も恋人だと思われたが、そのたび二人で笑った。
里帆が残業で遅れれば眞人は閉館ぎりぎりまで待ち、眞人が仕事を休んだ週には、里帆も一人では壁へ行かなかった。水曜を守っていたのが割引ではないことを、二人とも知っていたはずだった。
「割引がなくなったら、来なくなるかもね」
年度末、ジムが料金制度を変えると聞き、里帆は冗談めかした。新制度ではバディ割引が廃止され、一人ずつの契約になる。
眞人は「そうだな」とだけ返した。
最後の割引日。里帆は難しかった赤い課題を初めて登り切った。頂上のホールドへ触れ、下を見る。眞人が両手を広げて待っている。
「飛んで」
里帆はマットへ降りるつもりだったが、その声を信じて跳んだ。眞人に受け止められ、勢いで胸元へしがみつく。
いつもならすぐ離れるはずの腕が、今日は背中に残った。
「もう大丈夫」
里帆が言っても、眞人は離さない。代わりに受付から受け取った封筒を見せた。
中には二人分の年間会員証。割引のない料金を、それぞれ自分で支払ってある。裏面には毎週水曜の来館予約が、三か月先まで並んでいた。
「勝手に更新したの?」
「里帆の分は仮登録。嫌なら取り消す」
名字ではなく呼ばれ、里帆は彼の胸元から離れないまま、自分の会員証へ署名した。緊急連絡先には眞人の番号を書く。
「関係は?」
受付欄を指して尋ねると、眞人が少し困った顔をした。
里帆は《友人》を二重線で消し、《水曜に会う人》と書く。眞人の手を取り、そのまま受付へ向かった。
割引だから一緒に来ているだけだった。
割引が消えた水曜日、二人は初めて、安くならない未来を選んだ。