十七ミリのレンチ
環は父の工具箱を、玄関のたたきへ置いた。
灰色の金属箱は、借りたときよりきれいになっていた。油を拭き、錆びた留め金にも薄く潤滑剤を塗った。父はしゃがんで蓋を開け、工具を一本ずつ指で数えた。
「十七ミリがない」
「内ポケット」
「最初からそこだったか」
「そこに入ってた」
「お前は片づけが雑だからな」
環は返事をしなかった。工具箱を借りたのは、台所の蛇口を替えるためだった。父に頼めば、すぐ来て直しただろう。その代わり、冷蔵庫の中身からカーテンの色まで口を出し、帰り際に合鍵を作ろうとしたはずだ。だから箱だけを宅配で借り、自分で説明書を読んだ。
父は内ポケットから十七ミリのレンチを見つけた。
「これだ」
「全部ある?」
「たぶんな」
「確認して」
「娘を疑ってるみたいだろ」
「疑ったのはそっち」
父は口を曲げたが、もう一度数えた。スパナ六本、ドライバー四本、ペンチ二本。最後に十七ミリを所定の溝へ戻した。
「蛇口くらい呼べばいいのに」
「自分でできた」
「水漏れしたら下の階まで迷惑だ」
「一週間たって、漏れてない」
「素人判断だ」
「管理会社にも見てもらった」
父の言葉が止まった。環は靴を脱がず、たたきに立ったままだった。今日は箱を返すだけ。家へ上がれば、夕食、テレビ、泊まっていけという順番が始まる。
父は工具箱の蓋を閉じた。
「この家、いずれどうする」
「その話は今日はしない」
「一人娘なんだから」
「今日は工具箱だけ」
廊下の奥から、古い掛け時計が鳴った。父は持ち手を握り、箱を持ち上げた。重さで腕が少し下がった。
「次に何か直すときは」
「必要なら店で借りる」
「ここにあるのに」
「借りる相手も、私が決める」
父は工具箱を床へ置き直し、蓋を開けた。十七ミリのレンチだけを取り出し、環へ差し出した。
「これはやる」
「いらない」
「一番使う」
「持ってると、返しに来る理由になるから」
父はしばらくレンチを見た。やがて所定の溝へ戻し、今度こそ留め金を掛けた。
「そうか」
環は玄関の外へ出た。父は追ってこなかった。
閉まる扉の向こうで金属箱が持ち上がる音がした。一本も欠けていないことが、二人の間ではじめて、約束を残さない返却になった。