十年分の腕時計

最終電車の窓に映った男は、垣内慎吾より十歳若かった。

 午後十一時五十四分。二〇一六年の車内。向かいの席には、就職したばかりの自分がいる。安物の腕時計を何度も見て、恋人からの着信を無視していた。

「席、空いてますよ」

 若い慎吾は毎回そう言う。六分後、彼は地方転勤を告げる電話に出て、そのまま十年、恋人にも故郷にも戻らない。現在の慎吾には役職があるが、友人はいない。父の葬式にも間に合わなかった。

 目的は一つ。若い自分を、この終電から降ろすこと。恋人の待つ駅で下車させれば、十年をやり直せる。

 一周目は「未来のおまえだ」と名乗った。若い慎吾は車掌を呼んだ。

 二周目は父の死を告げた。若い慎吾は青ざめたが、転勤を選んだ。

 三周目、腕時計を奪って窓から投げた。列車は暗転し、また同じ時計が秒を刻んだ。

「席、空いてますよ」

 慎吾は座らず、吊革につかまった。若い自分の鞄から、見覚えのない封筒がのぞいている。開くと、現在の慎吾が書いたはずの手紙が入っていた。

〈この電車を降りれば、父の最期に間に合う。だが、君がこの十年で出会う人々も、作った仕事も消える〉

 手紙は周回ごとに一行ずつ増えていた。慎吾が忘れていた部下の名前、救われた取引先、退職を思いとどまった後輩。孤独な十年にも、誰かの時間は結びついていた。

 運転席脇の表示板には、終了条件が出ていた。

〈過去の選択を変更するか、変更権を放棄してください。放棄の対価は、移動者の十年間の記憶です〉

 若い慎吾の駅が近づく。恋人から四度目の着信。慎吾は受話ボタンを押させようと手を伸ばし、止めた。

「席、空いてますよ」

「知ってる。でも俺の席じゃない」

 慎吾は自分の腕時計を外し、若い自分の膝へ置いた。裏蓋には現在の会社の創立記念日が刻まれている。説明はしなかった。

 そして表示板の〈放棄〉を押した。

 列車は若い慎吾を乗せたまま発車した。窓の向こうで、彼は腕時計を見つめ、恋人からの着信へ指を伸ばした。押したかどうかは見えなかった。

 現在の終点で目覚めた慎吾は、社員証の会社名が読めなかった。スマートフォンには知らない部下から感謝のメッセージが並んでいる。父がいつ死んだのかも、恋人の声も思い出せない。

 手首だけが軽い。慎吾は乗り換え案内を閉じ、記憶にない自宅住所を駅員へ見せた。