午前三時の仮歌
墨染サエの仮歌は、午前三時にだけ最後の一行を表示した。
弟の宇田川凪人は、姉の死後に届いたプロジェクトファイルを古いノートパソコンで開いた。曲はピアノと仮の合成声だけ。三分ちょうどで終わり、歌詞欄の末尾は空白だった。
時計が午前三時を示すと、空白に文字が浮かんだ。
〈起こさないで〉
凪人は息を止めた。
幼いころ、夜中に曲を作るサエは、弟の布団を直して囁いた。
「起こさないで。お父さんが来ても、寝たふりしてて」
怒鳴り声から弟を守るため、自分だけが居間へ出ていった。凪人にとってその言葉は、姉が盾になる合図だった。
大人になってもサエは午前三時に電話をかけてきた。眠れない、息がうまくできない、少し話してほしい。最初は付き合ったが、仕事が忙しくなると煩わしくなった。死ぬ前夜の着信に、凪人は短く返信した。
〈起こさないで〉
翌朝、サエは浴室で見つかった。事故か自死かは曖昧なまま、端末には未送信の曲だけが残った。葬儀で親族は、夜更かしばかりしていたからだと片づけた。凪人だけは、三度の着信音が耳の奥で鳴り続け、スマートフォンを午前三時になる前に伏せる癖がついた。
仮歌のサビが始まる。ピアノの高音に、スマートフォンの振動音が細いハイハットとして混ざっている。一度、二度、三度。あの夜の着信回数と同じだ。合成声は何も責めず、最後まで明るい旋律をなぞる。その優しさが、凪人の胸を強く締めた。
午前三時一分。曲が終わる。
また、空白へ同じ六文字が現れた。
凪人はプロジェクトの履歴を調べた。歌詞データには一度もその文字が保存されていない。代わりに、字幕入力が「内蔵マイク」になっていた。再生中、凪人は机に伏して眠りかけ、自分でも気づかず同じ言葉を囁いていた。
波形を拡大すると、声は姉ではなく凪人のものだった。
存在しない最後の歌詞は、死者からの願いではない。
姉を眠らせた夜、凪人が送った最後の言葉が、罪悪感のリズムで口から戻ってきただけだった。