半分だけの夜景
亜希の部屋から見える夜景は、工事用の灰色の幕で半分になった。
向かいのビルが外壁工事を始めて一か月。昼は網目越しの作業員が見え、夜は足場の赤いランプだけが一定の間隔で点滅する。以前見えていた塔も川も、いまは細い隙間に切られていた。
午前零時、亜希は折り畳み椅子をベランダへ出した。
室外機が回り、幕がわずかに膨らむ。
赤いランプが点く。
幕がしぼむ。
赤いランプが消える。
その繰り返しを見ていると、町全体が大きな機械の内側にあるようだった。
今日、亜希は転職先からの内定通知へ返事をしなかった。今の会社を辞めたい気持ちと、新しい場所へ行く怖さが、どちらも同じくらい本物だった。画面を開くたび、決められない自分だけが遅れていく。
雲の切れ目から月が出た。
けれど工事幕の端に隠れ、半分しか見えない。亜希は椅子を少し右へずらした。それでも半分。さらに右へ動かすと、今度は隣家の壁が遮った。
向かいのマンションでも、同じようにベランダへ出てきた人がいた。
暗くて顔は見えない。手の中のスマートフォンだけが白く光り、その人は工事幕の隙間へ向けて端末を持ち上げた。月を撮ったらしい。数秒後、画面を下ろし、室内へ戻った。
亜希は写真を撮らなかった。
半分の月は、半分のままでも月だった。そう考えた途端に決断できるほど、仕事は簡単ではない。それでも、全部見えてからでなければ何も選べない、というわけでもない気がした。
赤いランプが点く。
消える。
工事幕の向こうで、金属の留め具が風に触れてかすかに鳴った。向かいの人が戻った部屋には、もうスマートフォンの光もない。亜希は自分の画面に映る顔を見て、明るさを一段下げた。返事を先送りするにも、期限を自分で決めることはできる。
亜希は内定通知を開き、「明日の正午までに返答します」とだけ送った。承諾でも辞退でもない、短い一行だった。
椅子を元へ戻さず、半分の夜景が見える位置に置いておく。今夜はそこへ座り、月が雲へ隠れるまで、答えを出さない自分と一緒にいようと思った。