卵焼きは二切れ
津森楓花は、仕事へ戻る朝、弁当箱を一つだけ台所へ置いた。
出勤時刻まで五十二分。制服代わりのジャケットは椅子に掛け、社員証も鞄へ入れた。残っているのは昼食だけだ。
休職中、冷蔵庫には飲むゼリーしか入っていなかった。昨夜、買い物をして卵を六個買ったのは、亡くなった婚約者の音声が古いグループチャットに残っていたからだ。
二年前、彼が楓花へ送った「弁当講座」。出張で一週間留守にするとき、料理をしない楓花を心配して録ったものだった。長さは三分四十五秒。余命を告げられるよりずっと前の、眠そうな声だ。
『卵二個。砂糖は小さじ一。楓花は甘すぎるって言うけど、朝はこれくらいでいい』
ボウルに卵を割る。殻が一片落ち、箸で追ううちに黄身が崩れた。音声では彼が『殻は大きい殻ですくう』と先回りする。楓花は指を止め、半分の殻で透明な欠片を拾った。
フライパンへ油を引く。じゅっと音が鳴る。
『一回目は形を気にしない。端へ寄せる。二回目から、それっぽくなる』
一回目は破れた。二回目も少し穴が開いた。三回目で巻くと、黄色い塊は不格好ながら卵焼きになった。彼なら、成功と言う形だった。
火を止め、巻きすへ移す。以前は彼がここで端をつまみ食いし、楓花に見つかると「形を整えた」と言い張った。今日は端まで残っている。
楓花は包丁を入れた。端の薄いところを味見し、四切れに分ける。以前は二人分の弁当箱へ二切れずつ入れていた。今朝、置いてある箱は一つだけだ。
音声の最後で、彼は電子レンジの音に負けないよう声を張る。
『卵焼きは二切れ。残りは夜に食べればいい。朝から全部詰めると重いから』
楓花は一瞬、四切れとも詰めようとした。けれど、言われた通り二切れを弁当箱の左上へ置く。空いた場所には冷凍の枝豆と、昨夜炊いたご飯を入れた。ご飯の湯気で蓋が曇らないよう、音声にはない一分を待つ。
最後に仕切りを直す。音声は、彼が「行ってらっしゃい」と言う前に、別の通知音で切れている。
楓花は再生を止め、弁当箱の蓋を四隅まで押した。留め具が二つ、乾いた音を立てて閉じた。