合鍵の行き先
梢が古いアトリエの扉を開けると、旭は窓際で鍵束を鳴らしていた。
「合鍵、まだ持ってたの」
「今日返すつもりだった」
建物は明日取り壊される。管理人が鍵を回収しに来るまで、あと三十分だった。
二人は五年前、この六畳の部屋を共同で借りていた。梢は絵を描き、旭は写真を撮った。売れたら一緒に広い場所へ移ろうと話していたが、梢は先に会社員になり、絵も旭も置いて出た。
壁に立てかけられた小さなキャンバスを、旭が持ち上げる。
「これ、持ってく?」
「もういらない」
描きかけの自画像だった。輪郭だけで止まり、顔がない。
「絵、完全にやめた?」
「うん」
「楽しい? 今の仕事」
「普通」
旭はそれ以上聞かなかった。梢が好きだと言えない理由は、そこにあった。彼が好きだったのは、眠るのも忘れて絵を描く自分だと思っている。もう存在しない自分の代わりに愛されるのは、騙すことに似ていた。
床から、二人で選んだ赤いマグカップが出てきた。旭が埃を払う。
「これは?」
「もういらない」
「俺も?」
軽い調子だったので、梢は笑うべきだった。けれど声が出なかった。
外でトラックがバックする警告音を鳴らす。管理人から「二十分後に伺います」とメッセージが届いた。
「写真は続けてるんだね」
「来月、個展」
「おめでとう」
「来る?」
「行かない」
「どうして」
「昔の私を知ってる人の作品を見るの、疲れるから」
旭はキャンバスの裏を見た。そこには梢の字で、当時の二人の住所と日付が書いてある。
「俺、絵を描く梢が好きだったわけじゃないよ」
「今さら、慰めなくていい」
「描いてるときだけ、自分のこと好きそうだったから、安心してただけ」
梢は自画像を奪うように受け取った。顔のない女が、埃の向こうからこちらを見ている。
管理人の足音が階段を上ってきた。
「鍵、お願いします」
梢は自分の鍵を渡した。旭も鍵束から合鍵を外す。
「もういらない」
三度目にそう言いながら、梢は旭の手から鍵を取った。
管理人が不思議そうに見る。
「それはこちらで処分しますが」
「記念に、だめですか」
許可をもらい、梢は役目を失った鍵をポケットへ入れた。
外へ出ると、旭が個展の案内状を差し出した。梢は「行かない」と言ったまま、それを受け取る。駅へ向かう角で別れたあとも、案内状も鍵も、捨てなかった。