名前のない真実
裁判所の裏に、一夜だけ果実市場が開いた。イオラは「真実の実」と書かれた籠の前で足を止めた。実は掌ほどの大きさで、半分は白く、半分は黒い。
「食べたあとの一文は、聞いた全員が必ず信じる」
果物売りは言った。
「代金は、その一文で守る人の名前。言い終えた瞬間から、二度と口にできない」
明日の裁判で、弟のダグは絞首刑になる。倉庫番だった彼は、主人を刺した罪を着せられた。イオラは本物の犯人が印章官だと知っている。夜更け、血のついた袖を焼くところを見たからだ。
証言は退けられた。若い女の見間違い、身内の嘘だと笑われた。
この実があれば、「印章官が主人を殺した」と一文だけ言えばいい。弟の名を使わずとも救える。代金は払えるはずだった。
けれど、名前は呼ぶためだけのものではない。
幼いダグが熱を出した夜、何度も呼んで生きていることを確かめた。初任給で買った靴を渡すとき、照れ隠しに乱暴に呼んだ。牢の格子越し、彼が「姉さんは来るな」と言ったときも、イオラは名を呼んで叱った。
救えたあと、どう呼べばいいのだろう。
弟。あなた。ねえ。
どれも彼ではあるが、ダグではない。
母が亡くなったあと、弟は自分の名を嫌った時期がある。父に似た名だから捨てたいと言う彼へ、イオラは何度も呼びかけた。名は残されたものではなく、これから誰かに呼ばれて育つものだと教えた。
「書くことはできますか」
「書ける。思うこともできる。ただ、あなたの声だけがその名を失う」
果物売りは実を切った。白い果肉からは雪の匂い、黒い果肉からは鉄の匂いがした。
市場の向こうで、裁判所の夜警が時を告げる。あと数刻で証言台に立つ。
イオラは実を持ち上げた。弟が生まれた日、父が「呼んでやれ」と言い、彼女が初めてその二音を口にした記憶が蘇った。
「ダグ」
一度。
「ダグ」
二度。
最後の一度を、舌に残る形まで確かめる。
「ダグ」
イオラは真実の実を噛んだ。
黒い種が一粒、彼女の舌の上から転がり落ちた。果物売りが拾い、札に弟の名を書いて種を包む。
イオラはその文字を読み、同じ音を出そうとした。
唇の間を、名の形をした沈黙だけが通り抜けた。