命令形の午後七時
都築紫帆は、自分の予定まで疑問形で話した。
「今日、七時に上がっても大丈夫でしょうか」
「来週、有休をいただいてもよろしいですか」
「今、昼ごはんに行ってもいいですか」
誰も禁止していないのに、許可が届くまで動けない。リモート勤務になってから、その癖はさらにひどくなった。緑色の在席表示を消すことさえ、誰かを裏切るように感じた。
子どもの頃、家族の予定は父の仕事を中心に決まった。大学では友人の空き時間に合わせ、入社後は上司の機嫌を見て退勤した。紫帆には「自分の都合」を言うための文法だけが育たなかった。許可を求めれば、断られたときに諦める理由ができた。
水曜の十八時四十分、紫帆は部屋のスマートスピーカーに「七時に仕事を終えてもいいかな」と話しかけた。夕食の時間を知らせてもらうつもりだった。
スピーカーの輪が紫に光る。
「質問は登録できません。命令形で、一つ話してください」
「タイマーを……二十分後に」
「それは、したいことですか」
機械のくせに聞き返してきた。紫帆が黙ると、もう一度だけ言う。
「命令形で、一つ」
窓の外では、向かいのマンションの台所に灯りが増えていた。紫帆の夕食は、昼に買ったパンの残りだ。十九時から美容院の予約があったが、チャットが気になって三度変更し、今日もキャンセル画面を開いていた。
紫帆は一度、喉を鳴らした。美容院へ行きたいからでも、疲れたからでもなく、時刻だけを決めてよいのだろうか。スピーカーの輪は急かさず回っている。
「午後七時に、仕事を終える」
声にすると、部屋の空気が少し硬くなった。
「登録しました」
十九時一分前、マネージャーから〈急ぎではないけど、今夜見られる?〉と資料が届いた。急ぎではない。その四文字を、紫帆は初めて額面どおりに読んだ。
返信欄に〈承知しました〉と打ちかけ、消す。〈明朝九時に確認します〉と書く。理由も謝罪も足さなかった。
送信し、在席表示を灰色へ変える。ノートパソコンの蓋を閉じた瞬間、スマートスピーカーが「命令を実行しました」と告げた。
紫帆はキャンセル画面も閉じ、予約時間の残るスマートフォンを鞄へ入れた。