善良な忘却

早川祥吾は毎朝、歯を磨きながら《静穏契約》の緑色を確かめる。月額三千円を払えば、指定した記憶は意識に上らない。契約が切れた瞬間、抑えられていた記憶は一度に戻る。それだけの仕組みだった。

祥吾が忘れているのは、弟の冬馬が死んだ夜だ。

橋から車が落ちた。祥吾は助かり、助手席の冬馬は助からなかった。医師に勧められ、退院の日から契約した。事故の詳細を思い出せなくても、墓参りには行ける。母へ謝る理由が分からなくても、謝ることはできる。忘却は治療だと、皆が言った。

料金は匿名の支援者が払い続けていた。被害者家族向けの基金だと聞いていた。母は月に一度だけ訪ねてきたが、祥吾の顔を見ると安心したように笑い、事故の話は決してしなかった。

事故から四年目の朝、緑色が黄色に変わった。

〈スポンサーから解約申請がありました〉

〈本日正午、抑制を終了します〉

祥吾は仕事を早退し、病院へ連絡した。再契約しようとしたが、スポンサー契約中の記憶は本人が引き継げない。支援者の同意が必要だという。

十一時五十分、母から短いメッセージが来た。

〈もう、私も払い続けられない〉

基金ではなかった。

祥吾は母へ電話した。出なかった。十秒ごとに時計を見る。知らない事故のために、全身が震え始める。

正午。

雨。ハンドル。助手席で冬馬が「代わろうか」と言った。酒を飲んでいたのは祥吾だった。カーブの手前で速度を上げた。冬馬はシートベルトを外し、運転席へ手を伸ばした。車が柵を破る直前、祥吾は弟の腕を振り払っていた。

さらに、その後の病室が戻った。

母は警察へ真実を話そうとした。祥吾は泣いて縋り、事故の記憶を消せば二度と酒を飲まないと誓った。母は証言を変え、毎月、自分の年金から忘却料を払った。

最後に、昨夜の母の記憶が開いた。契約者間で共有された解約理由だった。

『あの子が善良になったんじゃない。悪かったことを知らないだけだった』

祥吾の端末に更新ボタンは出なかった。

代わりに、警察への発信ボタンが表示されていた。彼は四年ぶりに、自分の指でそれを押した。