四十二頁の歴史
「教科書の四十二頁を開いてください」
歴史教師オズワルド・ケインの授業は眠いことで有名だった。王朝の年号を淡々と読み、戦争の武勇談を飛ばし、英雄について聞かれると「記録には誇張があります」と答える。放課後は古い地図を糊で直す、猫背の老人にすぎない。
学級委員のセネカは、返却する鍵を持って資料室へ入り、教師が一人で教科書を見つめているのを見た。
四十二頁の文字が勝手に並び替わっていた。
《勇者は魔王に敗北し、世界は初めから魔族の領土であった》
一文が完成した瞬間、窓の外の王都から人の灯りが消え始める。紙背の王と呼ばれる歴史魔族が、過去を書き換えて現在を奪おうとしていた。
頁の中央から黒い王冠が浮かぶ。
『今度こそ、お前の勝利をなかったことにする』
オズワルドは赤鉛筆を取り、一文字だけに線を引いた。「敗」の字だった。
その下へ「勝」と書く。
黒い王冠が真っ二つになった。紙背の王は頁から引きずり出され、百年前と同じ聖剣の軌跡に裂かれる。だが光も轟音もない。赤鉛筆の芯が一度、紙を擦っただけだ。魔族は消し屑ほどの黒片になり、机の上へ落ちた。
王都の灯りが戻る。誰も消えていたことに気づかない。
セネカは、自分が見た戦いを記録すべきか迷った。だが歴史を書き換える敵を倒したため、その戦い自体はどの年代記にも残らない。オズワルドは英雄の名を増やすことより、誤った一文字を残さないことを選んだのだ。少女は勇者の似顔絵ではなく、補修された頁の日付だけを資料台帳へ書くことにした。それなら次の誰かが、同じ裂け目に気づける。
オズワルドは黒片を刷毛で集め、古文書用の火鉢で焼いた。破れた頁を薄紙で補修し、書き換わった一文を元の記述へ戻す。赤鉛筆の跡も砂消しで丁寧に消した。
セネカだけが鍵を握ったまま動けなかった。
「先生が歴史の勇者だったんですね」
老人は眼鏡を直した。
「歴史に『だった』はありません。残った記録が、そう読ませるだけです」
翌朝、彼はいつもの眠い声で授業を始めた。セネカだけが、頁の薄い補修跡を見つめている。
オズワルドは教科書を開いた。
「教科書の四十二頁を開いてください」