圏外まで八分

鴻上日和は、別れの文章を三日前から下書きしていた。

〈篤志の試験が終わるまで、連絡をやめよう〉

本当は、終わったあとも隣にいたい。けれど長野の病院で働きながら専門医試験を受ける砥上篤志に、「邪魔はしない」と約束した。寂しいと言えば、その約束を自分から破ることになる。

会う時間を終え、東京へ戻る特急に乗った。会えたのは病院近くの喫茶店で四十分だけだった。篤志は参考書を閉じても、指先で見えないページをめくる癖をやめなかった。疲れている彼を見て、日和は用意していた土産すら渡せなかった。

山あいの駅を出ると、八分後には長いトンネルへ入る。

日和は送信ボタンへ親指を置いた。文章の最後には、何度も消した〈元気でね〉だけが残っていた。

その瞬間、篤志から電話がかかってきた。

「今、何か送るつもり?」

「どうして分かったの」

「会ってる間、ずっとスマホ伏せてたから」

車窓を杉林が流れる。トンネルまで七分。

「伝えるよ。駅を出たって」

「それだけ?」

「それだけ」

「日和、俺が試験に落ちると思ってる?」

「思ってない」

「じゃあ、別れたほうが集中できると思ってる?」

図星だった。短い沈黙のあいだにも、電波表示は一本ずつ減っていく。

「送るなら、今にして」

篤志の声が低くなる。

「圏外になる前に読んで、止めたい」

逃げられない言葉だった。

日和は下書きを開いた。整えすぎた文章は、自分の気持ちではなく、相手に断らせないための通知文に見えた。

「邪魔になりたくないの」

「日和が勝手に決めるほうが邪魔」

「ひどい」

「ごめん。でも、試験を理由に捨てられるのはもっと困る」

トンネルまで二分。車内照明が窓に映り始める。

「今、決めるね」

「うん」

日和は一度目の下書きを全選択した。削除の確認が出る。

「送るのは、別れじゃなくて到着時刻にする」

通話の向こうで、篤志が息を吐いた。

日和は下書きを消し、〈東京には二十一時十八分。着いたら連絡する〉と打った。送信直後、列車はトンネルへ入った。

画面から電波が消えても、送った時刻だけは青く残っていた。