土手味噌の泡
厨房で失敗した人間が、仕事帰りに居酒屋へ入るのは間違っている気がした。
ホテルの調理場に入って半年。僕は今朝、仕込みの出汁へ塩を二度入れた。先輩が気づいて作り直したため、客には出なかった。けれど忙しい時間を一時間遅らせた。料理長には「明日は計量から外れろ」と言われた。ロッカーで白衣を脱いでも、指先には塩のざらつきが残っている気がした。先輩が黙って洗った大鍋の音まで、帰り道についてきた。
初めて入った小さな店の奥に、白髪混じりの常連が一人いた。店主が僕の前へ箸を置こうとすると、常連は自分の肘を引き、狭いカウンターを指一本ぶん空けた。それだけで、こちらを見なかった。
牡蠣の土手焼きを頼んだ。小鍋の縁に塗られた味噌が、火に炙られてぷつぷつ泡を作る。牡蠣から上がる潮の匂いと、焦げた味噌の甘い香りが混ざった。湯気の向こうで、煮汁は少しずつ濃い色になっていく。
僕は箸をつけず、泡ばかり見ていた。
「煮詰まりすぎる前にどうぞ」
店主は火を一段弱くした。
一つ食べる。牡蠣は柔らかく、味噌の濃さの奥に、まだ海の味があった。二つ目は少し塩辛かった。時間がたつほど、同じ鍋でも味が変わる。
奥の常連が懐から小さな手帳を出した。何かを書き、一本線で消し、同じ行へもう一度書く。僕からは文字が見えない。男は書き終えると、手帳を閉じ、店主へ無言で会釈した。やり直した跡を破り捨てず、そのまま持って帰った。
料理長に言われたのは、計量から外れろ、だけだ。辞めろとは言われていない。僕は勝手に、その先まで濃くしていた。
明日は三十分早く入り、作り直しに使った材料数を確認する。先輩へ謝り、計量表にチェック欄を増やす案を出す。採用されるかは分からないし、しばらく包丁仕事だけになるかもしれない。それでも、黙って縮こまるよりはいい。
小鍋の火を止めてもらった。最後の牡蠣は濃い味噌をまとっていたが、噛むと中から淡い汁が出た。焦げた香りと海の温度が、失敗の苦さを消さずに、その輪郭だけを少し薄めた。