地味子のアカウント

久世杏のコスプレ用アカウントには、本名も勤務先も載せていなかった。

顔は加工し、背景の看板は消し、投稿時間もずらす。机に置く推しグッズも、オンライン会議の背景に映らないよう毎朝しまった。会社で「地味子」と冗談めかして呼ばれる自分と、四万人に見られる剣士の姿を、慎重に別々の箱へ入れていた。

その箱を、昼休みに同僚の相馬が開けた。

スマートフォンを杏の机へ向け、画面に見覚えのある写真を表示する。

「これ、久世さんだよね。目元で分かった」

声は親しげだったが、周りに聞こえる大きさだった。

「意外すぎる。社内チャットに流したら、みんな驚くよ。地味子の変身、って」

周囲の何人かがこちらを見た。杏の胃が縮んだ。

否定すればいい。似た人です、と言えば、いつもの地味な席へ戻れる。

けれど画面の中の衣装は、三か月かけて作ったものだった。肩当ての傷も、布を染め直した跡も、自分の手で選んだ。

「流さないでください」

杏は言った。

相馬が笑う。

「やっぱり本人? 大丈夫、褒めるだけだって」

「褒めるかどうかではなく、私の写真を私の許可なく使わないでください」

休憩室が静かになった。

相馬は気まずそうに画面を伏せた。杏は震える手を机の下へ隠さず、相手が投稿を閉じるまで見届けた。

向かいにいた派遣社員の沼尾が、そっと口を開いた。

「私、そのアカウントを前から見ています」

杏はまた身構えた。

「初心者向けに、安い材料で鎧を作る方法を載せてくれた人ですよね。去年、あれを見て初めてイベントに行けました」

沼尾は写真を見せようとはしなかった。ただ、自分の鞄につけた小さな剣のチャームを指で触れた。

同じ作品のものだった。

杏は胸の奥にあった箱が、壊れたのではなく、蓋を開けられただけだと気づいた。中身を誰に見せるかは、まだ自分で決められる。

その夜、杏はアカウントの紹介文を書き換えた。

《平日は会社員。週末は剣士。衣装は全部、自作です》

勤務先も本名も書かなかった。

けれど「正体は秘密」という一文だけは消した。投稿ボタンを押すと、沼尾から剣のスタンプが一つ届いた。